私は研究所の一角にある廃棄処理室に向かっていた。そこは使用した実験体を処分する前に格納しておく倉庫のようなもので週に一度焼却処分を行っているが、ここ最近はバーキンが大量に使用した実験体の腐臭が酷く、普段は誰も近付かない。
ベッドを押しながら廃棄処理室に入ろうとすると、背後に人の気配がした。
「おや?ウェスカーじゃないか!」
振り向くと同僚の研究員が立っていた。確か名前はロバートだったか。ロバートはそのままこちらにやって来る。
「こんなところに君が来るなんて珍しいな。一体どうしたんだ?」
同僚の間の悪い登場に、余計な詮索だと思いつつ咄嗟に言い訳を繕う。
「バーキンがまた荒れてな。実験体を一体駄目にした」
わざとらしくため息交じりに言うと、ロバートも「ああ……」と私に同情するような表情をする。
「バーキンのやつ、まだアレクシアのことを引き摺ってるのか……俺は最近そっちの課には行っていないが、噂には聞いていたよ」
まさか本当だったとはな、と言ってロバートは私の肩を労わるように叩いてくる。
「で、何でバーキンでなく君がここに?」
しつこいやつだと内心舌打ちするが、それは心に留め置く。代わりにいかにも深刻な雰囲気を装って同僚を見た。
「……それは君自身の目でバーキンの姿を見れば分かると思うが……」
私の言葉を聞いたロバートも流石に何かを察したのか、少し強張った顔付きになる。
「……バーキンは実験体の処理どころではない精神状態だ。昨日なんて自分で解剖した実験体の血の海の中で寝ていたからな」
その光景を想像したのか、ロバートは身震いして首を振った。
「そ、そうだったのか……あいつは前からちょっと変わったやつだと思っていたが、まさかそこまでとはな……」
ロバートは自分の体を抑えるように腕組みをして私を見る。
「君も大変だな……ウェスカー」
すっかり私の言葉を信じ切っているロバートに、私はお手上げといった風に額を押さえてため息を吐く。
「全く、あの奇才にはもう懲り懲りだ」
「まあ……天才と奇人は紙一重って言うし……バーキンはそういう性質の男なんだろうな……」
私の皮肉を励ますようロバートはそう言うと、ふと自分の腕時計を見る。
「おっといけない、こんなところで話している場合じゃなかった。所長からお呼びがかかってね」
「そろそろ失礼するよ」と言ってロバートは去って行く。ロバートが完全に立ち去るのを見送った私は、廃棄処理室の扉を開けて中に立ち入った。
扉を開けた瞬間から、人間や動物の死体から発せられる物凄い腐臭が鼻腔を刺激する。余りの激臭に吐き気を催したり目を開けていられなくなる者もいるが、私はバーキンの所為で実験体の処理に慣れてしまったので、せいぜい白衣の袖で顔を覆う程度で耐えられた。廃棄処理室の重い鉄の扉を閉めるとベッド上の名前に声を掛ける。
「名前。袋を開けるが、覚悟しろ。物凄い腐臭だからな」
言って袋の結び目を解くと、途端に名前は咳き込んだ。
「うっ!ゲホッ……何よこれ……」
名前は服の袖で顔を押さえながら袋から体を引き摺り出す。私は名前の腕を引いてそれを援助した。ベッドから地に足を付けた瞬間、辺りに堆積している屍の山を見て流石の名前も息を引いていたが、それも束の間、すぐに毅然とした態度で私に尋ねる。
「それで、どこから逃げるの?」
「ここだ」
私が指し示したのは部屋の奥にある暗い溝だった。覗き込むと、その下にも廃棄された実験体の山が出来ている。
「この下に飛び込むって言うの?」
「そうだ。残念ながらここしか研究所の外に繋がる裏口はない」
私は白衣を脱ぐと、それを名前の頭から被せる。
「何?」
「被っておけ。直接死体に触らずに済むだろう」
そうして名前の腕を引く。が、名前が抵抗した。
「ち、ちょっと待ってよ!」
「?」
振り返ると名前は驚いたような顔でこちらを見ていた。
「あなたも落ちる気なの?」
「ああ。そうだが?」
「ここからは私一人で充分よ。落ちた後、どこへ行けばいいのか教えてくれればそれで良い」
「もし他の研究員に君が逃げているところを発見された場合、脱走を手助けした私にも類が及ぶことになる。君が完全にこの研究所から脱出するまでは私が側にいる」
「でも……」
「そんなことより、」
渋る名前を見下ろして笑う。
「くれぐれも大声を出すなよ?」
私は名前の腕を引いて、堆(うずたか)く積まれた死体の山に飛び込んだ。
落ちてから数秒もしない内にグニャリとした気味の悪い感触の下へ着地した。上から見下ろした時は見えないが、死体の山の横にはベルトコンベアがあり、その先はシャッターで閉ざされている。そして、そのシャッターの先に脱出口はあった。
先にベルトコンベアに乗り移った私は死体の山に尻餅を突いている体勢の名前を引き起こす。
「よくやった。気付かれたら終わりだからな」
私の言う通り、黙って飛び降りた名前は悲鳴を上げる代わりに強く目を瞑っていたらしい。声を掛けるとゆっくり目を開ける。
「……何て素敵なクッションなのかしらね」
「だが、いつまでもそうしていたくはないだろう?」
皮肉を言う名前を笑って、ベルトコンベアの方へ引き寄せる。名前が乗り移るとその腕を引いたまま、起動していないコンベアの上を歩く。ふと名前を見ると、コンベア横にある赤いボタンを凝視していた。
「焼死体になりたくなければ、間違ってもそのボタンを押すなよ」
ボタンの下には「焼却」と書いてある。このボタンを押すと今自分達が歩いているベルトコンベアの空間が瞬く間に火に包まれることになる。普段は先程の死体の山をコンベアに流し、そうして焼却処分しているのだ。
名前は黙って頷き、私の後に続いた。
「こんな恐ろしいことをしているなんて……ここの人たち、人間とは思えない」
名前は背後を振り返り、死体の山を見ながら言った。
「我々の思考や思想は、研究に於いては常識の範疇を超えている。そうでなければここで研究を続けることは出来ないからな」
そう言いながら、私の脳裡には嘗てアンブレラの研究内容に異議を唱えたり、実験の恐ろしさから研究所を脱走して抹殺された研究員達の名前が浮かんだ。
「どう考えたって、こんなことは許されない」
「私達の研究は人類の未来を発展させるためのものだ。発展には犠牲が伴う。そこに善悪は関係ない」
「崇高な行為とでも思ってるようだけど、私にはとても愚かにしか思えない」
私がここの研究員だと分かっていて真っ向から意見してくる名前の態度は、かえって潔いと思った。怯えて口先だけで同調する人間より、よほど信頼に足る性格だと改めて思う。
「人間のエゴだろうと何だろうと、研究によって人類が進化すればそれは素晴らしい進歩だ。それは人間が『完璧』に一歩近付くと言うことだ」
「でもそれは、自然の摂理に反しているでしょう?」
「自然の摂理に反しているからといって、自然のままに従い続けるのか?」
「人為的に何かせずとも、絶滅の危機に遭えば生物は自然と進化する。それができない種は淘汰されるだけ。それが生物として自然な流れよ」
「ならば、人間のように頭ばかり進化して、碌に肉体の強靭さも持ち合わせない生物は、いち早く絶滅するだろうな」
「そうかもしれない。所詮人間は、自然の前には無力だから」
「自然の流れのままに、そうして何もせず手を拱いて滅びを待つというのか?それこそ人間には無理なことだろう。人間は時に不死・永遠という絶対不変すら願うほど貪欲だ。そして我々の研究は、その不変を叶える可能性を持っている」
「滅びを受け容れられないのは、人間の愚かさよ」
「愚かなのは、人間のような生物を生み出した自然という『神』だ。何をしたところで、人間もいつか絶滅するだろう。だが、私は簡単に滅びを受け容れるつもりなどない。人がどこまで自然という『神』に抗えるのか、その行く末を私は知りたいだけだ」
思いがけず白熱した論争を繰り広げている内に出口が近づいてくる。ウェスカーがシャッターを開けたその先は、研究所の外に繋がっていた。
「……悪いが、私が連れて行けるのはここまでだ」
「ここからを出られただけで十分よ」
名前とウェスカーはベルトコンベアから地上に降りる。
「ここで見たことは全て忘れろ。口外してはならない。君自身に危険が及ぶことになる」
「……分かってる。これ、ありがとう」
名前が着ていた白衣を私に返す。
「……私、あなたみたいな人に初めて会った」
「?」
「あなたの考え方はやっぱり理解出来ない。けど、こうして私を助けてくれた」
それはどうして……と見つめる瞳に引き寄せられるよう、私は名前の頬に触れる。
「君にウィルスの力など必要ない。君の思うまま、自然に生きるが良いだろう」
「…………」
「ウィルスが適合しなければ……どうなるかはもう見ただろう。君のような人間が使い捨てにされるのは忍びない。だから私は君に手を貸した」
そう言うと名前はふっと笑った。
「あなた、名前は?」
「何故、そんなことを訊く?」
「安心して。ただ恩人の名前が知りたいってだけ」
「アルバート・ウェスカーだ」
私の名を聞いた名前は狂犬と呼ばれるには相応しくないほど穏やかな笑顔を浮かべていた。
「早く行くんだ」
私がそう促すと、名前は背を向けて歩き出す。それを見届けて、名前の頬に触れていた掌を見詰める。
「いつか、私が逢いに行く……名前」
だからどうかその時まで、私を覚えていてくれ。
その時は、きっと君を……。
―――――
(黒に繋がれる私と、白に生きようとする君)
(白に生きようとする私と、黒に生かされる君)