二つの悔恨1

私は当時、名前の感情が理解できなかった。
寧ろ、堕弱であるとさえ思っている節があった。
しかし、今の私は―。

佐和山城の望楼で私は静かに桜を眺めていた。
満開に咲き誇る花弁を月が煌々と照らす様は、見ているだけで自然と心が静まっていく。
近頃は満月の夜にこの場所へ来ることが私の習慣になっていた。

……この場所には、特別な思い出がある。
三成の瞳は桜花の向こうを見透かすように、どこか遠くを見詰めていた。

―――――

私は布団から起き上がり自分の身支度を済ませると、廊下を出歩き一枚の襖の前で立ち止まる。襖を開けると部屋には未だ布団に潜り込んでいる人の姿があった。

「おい、名前。朝だ」

私はその布団へ近寄り強引にそれを引き剥がした。身を隠す物がなくなり、私が開け放った襖から零れてくる陽光を眩しそうに受け止めて、今まで眠っていた布団の中の主がゆっくりと開いた。

「……三成?」

薄らと開いた瞳から私の方を見る名前は気怠げな声をしていた。
名前は私の同僚で、嘗ては私と剣の腕を並べられるほど武術に優れており、秀吉様や半兵衛様、そして私もその実力を認めていた。

しかし名前はある日を境に、突然刀を持つことを止めてしまった。
そして次第に寝付く日が多くなり、それを心配した秀吉様や半兵衛様と話し合った結果、大坂城は人の出入りが激しい為名前の精神的な障りになるのではと判断し、名前と一番身近に接していた私が名前を引き取り、佐和山城で面倒を見ることになったのである。

「いい加減起きろ。眠り過ぎも体に悪いぞ」

私の言葉を聞いているのかいないのか、名前は何も言わず緩慢な動作で布団から起き上がる。最近はこうして毎朝名前を起こすことが私の日課になってしまっていた。
別に誰に頼まれている訳でもないが、戦場で互いに背中を預け合うほど戦ってきた名前のことを思うと、何故かこうして面倒を見ずにはいられなかった。
私の目には、日毎に名前が弱っているように見えた。それが気がかりでこうして朝になると様子を見に来てしまうという心配もあった。

「おい、今朝はいつもより顔色が悪いぞ。具合でも悪いのか」

私が尋ねると名前はふっと微笑ったが、その笑みさえどこか弱々しく感じられる。

「別に……顔色が悪いのはいつものことだよ」

そう呟いて名前はふと私の方を見る。

「ねえ、明日からは起こしに来なくていいよっていつも言っているのに……どうして起こしに来るの?」
「私しか態々貴様を起こしに来る奴が居ないからだ」
「三成だって仕事忙しいでしょう。私に構わないで良いよ」
「そういう訳にはいかん」
「……どうして?」
「……秀吉様から、お前の面倒を見るよう仰せ付かっているからだ」

本当は毎朝名前を起こしに行けなどとは言われていないが、名前がこのような状態になってしまった後、秀吉様が私に名前のことをよろしく頼むと仰られていたのを思い出し、咄嗟に言い繕った。

「さあ起きろ」
「わ、ちょっと……」

くだらない問答を続けていても仕方がない。私は強引に名前の腕を掴んで立ち上がらせ布団から引き摺り出すと、そのまま部屋の外へ出る。

「み、三成……!痛いんだけど」
「煩い。黙れ」

そのまま容赦なく名前を引き摺り廊下を歩く。

「取り敢えず朝食を取れ」

私は佐和山に常駐している将兵が使っている食堂に名前を連れてきた。
逃げるなよ、と言い含めるように睨みながら名前を手近の座敷に座らせる。

「そこで待っていろ」

名前にそう言い置いて私は給仕に一人分の朝食を用意させた。暫時待って給仕から朝食の膳が載った盆を受け取ると、それを名前のところへ運ぶ。

「さあ、遠慮せず喰え」

私が名前の目の前の机に盆を載せると、名前の視線が躊躇うように私と盆の上の朝食を往き来する。

「何をしている。早くしないと飯が冷めるぞ」

そう言って私が急かすと名前は箸を持ったが、料理に手を付ける様子がない。

「……ごめん、三成。食欲がないの」

名前は逡巡した瞳で私を見る。

「なくとも喰え」
「そんな無茶な……」
「お前、今の自分の顔色を鏡で見てみろ。不健康そのものの顔色だ」
「いつも不健康そうな三成に言われたくないよ」
「黙れ。いちいち揚足を取るな」

今の名前は以前の強健な姿は見る影もなく、窶れた顔に、虚ろな瞳をしていた。
このまま口論を続けていても埒が明かない。私は名前の手から箸を取り上げると、手近にあった南瓜の煮物を取り名前の口に詰め込んだ。

「むぐっ!」
「さっさと咀嚼しろ。吐くなよ」

名前は観念したのか仕方なさそうに煮物を食べ始める。やっとゴクリと飲み込んだ名前はハアと溜息を吐いた。

「三成……不意打ちとか酷……うぐっ」
「無駄口を叩く暇があるならさっさと喰え」

名前が一口食べ終える間に次々と料理を箸で取り分けて口に運んだ。強引だがそうでもしないと、名前は本当に何も口にしない。

やっと朝食を食べ終えた名前はぐったりとして座敷の壁に身を預けていた。
養を摂ることさえこの有様である彼女に、私は内心どうしたら良いものかと逡巡していた。
しかし名前に優しくしようとは思わない。今の名前は甘やかせば、このまま容易く堕落するに違いない。
私は名前痩せ細った腕を掴み立ち上がらせると食堂を出る。

「三成……どこに行くの?」
「寝てばかりいるからそんな様なんだ。偶には昔のように武芸に励め」

そうして名前の腕を引いてやって来た場所は城内の鍛錬場にある道場だった。
私は木刀を二つ手に取り片方を名前に放り投げる。名前はそれを取り落とすことなく反射的に受け取った。その様子に俊敏さだけはまだ衰えていないようだと判じて、私は少し安堵した。

「一戦交えるぞ」

私の言葉に名前は明からさまに動揺していたが、私は容赦なく名前に向かって木刀を振り翳した。

「!」

私の攻撃を名前はその手の木刀で押し止める。抑える力は前線で戦っていた頃より弱々しく感じられたが、防御の構えも忘れてはおらず咄嗟の判断と行動力も未だ健在のようだ。

「勘は未だ鈍っていないようだな」

交えていた刀を戻し、一度ふっと空に振る。

「もう、いきなり不意打ちなんて……」
「戦場では不意打ちの連続だ。どこから槍や矢が飛んで来るか分からぬと、いつもそう言っているだろう」
「私はもう、戦には出ないよ。三成……」
「何と言おうと、秀吉様から出陣の命が下ればお前も戦うことになるのだぞ」

私は名前を叱咤激励するつもりでそう言ったのだが、その言葉は名前にとって重荷に感じたらしい。名前の顔に見る見る翳りが差すので、私は名前の手から木刀を取り上げ、自分の手にしていた木刀と共に壁に掛け戻した。

「お前……今、何かやりたいことはないのか?」
「望むこと?」
「何でも良い。食べたい物や欲しい物、行きたい場所……何かないのか?」

名前は暫く首を捻って考えていたが、何か思い付いたのかはっとした表情になる。

「……花見に行きたいな」
「花見?そんなもので良いのか?」
「うん」
「……花見の場所は、どこか行きたいところがあるのか?」
「佐和山城から見える桜を見たい……佐和山の望楼から見える桜を」
「そうか……私は日中仕事があるので夜になってしまうが、それでも構わないか?」
「うん。大丈夫だよ」

名前の返事を聞きつつ、そんな単純な願いであればいつでも叶えてやれたものを、名前はどうしてすぐ私に頼まないのかと少し不満な気持ちになったが、ただ「分かった」とだけ言った。
私は仕事を終えた後に名前を迎えに行く約束をし、名前を一旦部屋に送って別れた。

―――――

今日の仕事が一段落し、夜になって名前と共に佐和山の望楼へ向かうと、そこには満開の桜景色があった。
今宵の月は満月で、煌々と天高くから夜桜を照らしていた。

「わあ……綺麗!」

名前はいつになく感嘆の声を上げて、もっと近くで桜を見ようと望楼の端まで早足で歩いていった。

「おい、余りはしゃぐなよ。勢い余って望楼から落ちても知らんぞ」
「三成は心配性ね」
「違うな。お前が危なっかしいからだ」
「……そうかな?」
「ああ……戦の時には鋭敏に動き回るくせに、普段はぼうっとしていて何でもないところでも躓くのだからな」

そんな他愛もない会話をしている内に、私と名前は望楼の端まで辿り着いていた。

「……本当に綺麗……来て良かったね、三成」
「……ああ……そうだな」

望楼の欄干に寄りかかって夜桜を眺める名前の横顔を、私はふと見詰める。すると、私の視線に気付いた名前もこちらを見た。

「どうしたの、三成。私の顔なんかじっと見て」
「いや……お前の顔を見ていた訳ではない」

私は誤魔化すように名前の髪に付いていた桜の花弁を取った。その花弁を手から離すと、風に乗ってどこまでも吹かれていく。

「名前……お前に前から訊こうと思っていたのだが」
「?」
「お前が今、気を塞いでいるのは……ある男の死が原因だそうだが……それは本当か?」

今までは名前の気持ちを察して深く追求しないようにしていたが、思い切って私が以前刑部から聞いていた情報を尋ねてみると、名前は少し神妙な面持ちになって頷いた。

「大切な人だったの。でも、戦で亡くしてしまった」
「……お前は……その男を愛していたのか?」
「……ええ。彼も……私を心から愛してくれていたわ」
「……………」


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