白衣に滲む闇

名前が宮田医院の院長室の扉を開くと、そこには相変わらず仏頂面をしたこの病院の院長こと宮田が居た。

「おはようございます」
「ああ、名前ですか」

宮田は仕事中のようで、一度名前の方を見ただけですぐに手元のカルテに目を戻す。幾ら院長で多忙の身とはいえ自分から呼び出したにも拘らず、その素っ気ない彼の態度が少しだけ名前の癇に障った。

「みやちゃん、ご用とは何でしょうか?」
「……その呼び方……やめろ」

宮田は心の底から不愉快そうに顔を顰めて名前を睨み据える。
今朝名前の携帯電話に着信が入り誰かと思えば宮田からのもので、今から病院に来てほしいと言う。そういう訳で名前は目覚めたばかりの睡魔を堪え外着に着替えてこうしてやって来た。宮田を「みやちゃん」呼ばわりしたのは折角の眠りの時間を妨げられたことへのちょっとした応酬である。

「この前神代の婿にもそれでからかわれたんです。不快なこと思い返させないでもらえますか」
「神代のって……淳くんのこと?」
「そうですよ……入婿のくせに生意気な……」

ブツブツと呟く宮田の持っていた鉛筆がボキッと不吉な音を立てる。

「先生、鉛筆折れてます」
「ああ……私としたことが……勿体ない」

宮田は折れた鉛筆をゴミ箱に捨てると名前の方に手を差し出す。

「?」
「弁償代払ってください」
「え?何でですか!?」
「あなたが不快な思いにさせるような発言をした所為ですよ」

払わないなら警察を呼ぶと言い、宮田は白衣のポケットから携帯電話を取り出す。

「ちょ、先生何やってるんですか!!」

名前が止めに掛かると宮田は「ああ、そうだ」と言って名前を見る。

「一層、この病棟に入院しますか?そうすれば全部なかったことにしても良いですよ」

こんな調子で以前から宮田は何かしらに託(かこつ)けて名前に入院を勧めてくる。

「先生いつもそう言いますけど、それどういう意味ですか?」
「さあどういう意味でしょうね。自分で考えてください」

これはどう考えても遠回しに馬鹿にされている。名前にはそうとしか思えなかった。

「入院なんてしません。ちゃんと弁償しますから警察とか勘弁してください」

名前は已むなく鞄から財布を取り出そうとするが、それを見ていた宮田は何故か舌打ちをする。

「……もう良いですよ。何だか馬鹿らしくなりました」

宮田は携帯電話を仕舞うと机から新しい鉛筆を出してカルテを書き始める。自分勝手な宮田の発言と行動に名前は呆然とするが、彼の独善的な振る舞いは日常茶飯事のもので一々突っ掛かると余計に話が複雑になると思った名前は敢えて気にしないことにした。

「……ところで先生、私に何か用ですか?」

自分が病院に呼ばれた肝心の理由を尋ねると、今まで机上に向かって仕事をしていた宮田の手が止まり、ふと名前を見た。いきなり直視された名前は思わず体を引く。

「何故、驚いているんです?」

名前の態度を見た宮田は相変わらず無表情だがどこか探るような目付きをしていた。

「いや、だって……そんな急に見詰められたらびっくりするじゃないですか」

それを聞いた宮田は一瞬フッと笑ったように見えたが、次の瞬間には無機質な瞳で名前を見据える。

「牧野さんは平気なのに、私だと驚くんですね」

宮田の言葉の意味が名前にはよく理解出来なかったが、それよりも先に疑問が浮かんだ。

「どうして先生は私が牧野さんと一緒に居ることを知っているんですか?」

名前は牧野と宮田が双子であることを知ってはいるが、二人は違う家庭で生まれ育ったためか、互いにどこか余所余所しい態度を取っている。だが、名前から見てもそれは性格の相違、と一言では形容し難い、何か複雑なものを二人は背負っているような気がした。
それに配慮して名前は時々会話の流れで話をすることはあっても、わざわざ牧野の前で宮田のことを話題にすることはないし、それは宮田に対しても同じだった。況して、今まで三人で会うことは偶然でも一度もなかった。

名前の問いに、宮田はあっさりと返答する。

「昨日患者の出張診察で田堀へ行ったときに、刈割から下りてくるあなたを見掛けたんです。あの場所を歩くのは今は教会に出入りする人だけですから、教会に行っていたことは直ぐに分かりました。診察を終えた後、私も教会に行って牧野さんに普段から名前と会っているのか尋ねたんです」

そのとき牧野さんは週に二、三日名前と会っていると言ったと宮田は言葉を締め括る。

「……全く、暇人同士で優雅にお茶会ですか。羨ましいご身分ですね」
「私はともかく、牧野さんは暇人じゃないです!」
「それはどうでしょうね……あの人は基本的に八尾さんの言いなりですから。八尾さんに何も命令されていないときは暇なんじゃないですか」

感情のない冷淡な口調で宮田は言い切る。「頼む」でなく「命令」と言う人間味に欠けた言葉を使い、まるで牧野の人権を無視した宮田の口調に名前は不快感を覚えた。

「どれだけ牧野さんを侮辱するんですか!」
「侮辱したつもりはないですよ。私は本当のことを言っただけです」
「仮に先生がそう思っていても、そういうことを口にして良いかは別問題ですよね?」
「……あなたはどうして、そうやって牧野さんを庇い立てするんです?」
「別に庇っているつもりはないです。先生こそどうして私が牧野さんを庇っていると思うんですか?」

その問いには答えずに、宮田は恐い程真っ直ぐな眼差しで名前を見据える。

「……もう教会には行かないでください」

宮田の言葉の意味を理解し兼ねて、名前は眉を顰める。

「何で先生にそんなこと言われなきゃいけないんですか?」
「……私が嫌なんですよ」

宮田はガタッとイスから立ち上がり、名前の方へ歩み寄る。

「宮田先生?」
「……名前」

宮田が名前に触れようとしたその時、名前は何かを閃いたような顔をして恐る恐る宮田へ話し掛ける。

「まさか……宮田先生、私に『牧野さんを取られるような気がして嫌』なんですか?」

その言葉を聞いた瞬間、宮田は足を止め、盛大にわざとらしい溜息を吐いて額を手で押さえた。

「……一体、あなたの思考回路はどういうことになっているんですかね」
「だって先生と牧野さんは双子だから、もしかして兄弟愛の嫉妬かなと思って……」
「双子といえど他人ですよ、他人。……ああ、今の会話で改めて名前が超弩級の馬……鈍感だと分かりました」

宮田はポケットからメモ帳らしきものを取り出すと何かを書き込み始める。

「何してるんですか先生、まさか……今の言葉メモってるんですか?」
「そうですよ。何であろうと患者について分かった情報があればすぐに書き止めておくことが医者の務めですから」
「誰が患者だよ!!というかそれカルテじゃなくて自分用のメモでしょ!!」

名前が宮田の手からメモ帳をぶん取ろうとすると、宮田は腕を伸ばしメモ帳を頭上に掲げる。
身長差の所為で届かず名前が苦戦している姿を見て宮田はフッと笑う。

「そんなに必死になって……滑稽ですね」

自分を見下ろす宮田の黒い笑みを見て名前は怒りを覚える。

「医者の立場を利用して人のプライバシーを……最低!!」

怒り心頭に達した名前が何としてもメモを奪おうと宮田に掴み掛かろうとした時、宮田がグッと顔を近付けてきたので名前は息が止まった。

「……余り騒ぐと、このまま強制入院させますよ?」

真顔でおぞましいこと平気で言うあたりが宮田は本当に恐ろしい。宮田の気迫に気圧されつつ名前は勇気を振り絞って反論する。

「……さっきから言ってますけど、別に入院する程私はどこもおかしくありません」
「仮に本当に心身共に健康である人が自分はおかしくないと主張しようと、『そう言っていること自体がおかしい』と周囲の人間から言われ続ければ誰でも最後はおかしくなるものなんですよ」
「ちょ……宮田先生、冗談ですよね……止めてくださいよ」

抑揚のない口調で物騒な発言をした宮田は名前から顔を遠ざけると、嘲笑的な笑みを浮かべる。

「冗談じゃないですよ……今まで私はそういう患者を腐る程見て来ましたからね」

そう話す宮田の瞳はどこか遠くを見ているようだった。それでも尚意味深な笑みを浮かべ続けていたものの、それは何かを楽しんだり喜んだりするときに浮かべる笑顔ではなく、何かに思いを馳せながら自嘲しているような寂しい笑顔だった。

以前名前は牧野から聞いたことがあるのだが、宮田は医者であり院長という立場柄、この村に関する重要な責務を負っているらしい。その詳細についてまで牧野は言わなかったが、宮田が時折見せる陰鬱で寂しげな表情からして、それが良い意味で宮田に緊張感を与えるものではないことは何となく察しが付く。

普段から冷徹な宮田とて人間なのだ。どんな人にも多かれ少なかれ情がある。彼は責務を全うしようとする思いから自分の感情を押し殺し、それが長きに亘(わた)った為に虚無的な性格に変貌してしまったのではないか。宮田と接すれば接する程、名前はそう思うようになっていった。

「先生」
「……何ですか?」

名前に呼ばれた宮田は我に返ったように名前の方を見る。

「もし……私がこの村で暮らしていけなくなるようなことをしたら、やっぱりこの病院に入院することになるんですか?」

名前の質問に、宮田は訝るように眉間に皺を寄せた。

「何を言っているんです?」
「先生が私に入院しろとか言うのは、何かを注意されている気がして……」

宮田が問い掛けても名前は宮田の方を見るだけで何も言わない。名前が自分の何かに感付いていると察した宮田は平静を装い、溜息を吐いた。

「そんなに深刻な意味などありませんよ。名前が救いようのない馬鹿だから入院を勧めているだけです」
「ちょ、先生!!」

名前を無視して宮田は言葉を続ける。

「まあ……君がこの村で暮らしていけなくなるようなことをするとは思えませんが、万一そういうことになったらここに来ればいい」
「でも、そういうときは教会の方が安全なんじゃ……」
「……だから!」

「協会」という言葉を聞いた瞬間、いつになく苛立ちを含んだ厳しい口調で宮田は名前の言葉を遮る。

「教会にはもう行くなと言ったでしょう?」
「ど、どうしてです?」
「あの教会はこの村で最も安全な場所のように思われていますが……近付かない方が身の為です」
「それは……牧野さんも危ないってことですか?」
「牧野さんなら大丈夫です。あの人には八尾さんが付いていますから」
「協会には、何か知られてはいけないようなものでもあるんですか?」
「それは教えられません。それを知ってしまえば、私は二度とあなたをこの病院から出すことは出来なくなる」

宮田の言葉と鋭い瞳に射抜かれて名前は言葉を詰まらせるが、そこで引き下がることはしなかった。

「私は……そうなっても構いません」
「名前、君は何を言って……!」

宮田は思わず名前の両肩を掴むが、その時に見た名前の表情が余りに真剣なものだったので思わず言葉を失う。

その目は何だ。

牧野のことがそんなに心配なのか。自分の身がどうなっても構わないと思える程に?

それとも……いや、そんなことはない。まさか俺の身を案じているのかなんて、そんな馬鹿らしい考えは名前には死んでも訊けない。

宮田は名前から目を逸らし、感情を押し殺すようギリッと歯噛みすると名前の方を掴んでいた手を離す。

「もう……この話は止めましょう」
「先生!」
「黙れ!!」

宮田の怒声に名前はそれ以上何も言えなくなった。これ程取り乱す宮田を今まで名前は見たことがなかった。
宮田は強引に名前の腕を引き院長室の扉を開ける。そのまま足早に病院の入口まで来ると掴んでいた腕を離す。

「……今日はもう帰りなさい」
「……先生」
「怒鳴って悪かった。君も、頭を冷やした方が良い……」

宮田から謝罪の言葉など聞いたことがなかった名前はそれだけでも驚いたのに、その表情に苦痛のような翳りが差しているのを見て、掛ける言葉が見つからなかった。

「宮田先生……」
「…………」
「……じ、じゃあ、失礼します……」

名前は宮田に背を向けると、宮田医院から上粗戸へ続く道を辿る。

「……俺は忠告したからな。名前……」

上粗戸へ続く橋を渡る名前の背を見送りながら宮田は呟く。
名前があの教会へ通い続けるのであれば、いずれ名前も真相に辿り着いてしまうかも知れない。名前に村の暗部の姿を知られるのは本意ではないが、仮にそうなったとしても連れて来られるのはこの病院。

複雑な感情を宿した瞳を名前に向けていた宮田は踵を返す。
白衣を纏う彼の背中は、暗い病棟内の闇に溶けるように消えた。

―――――

(責務を負うのが俺である以上、裏を返せば、俺だけがお前を護れるのだから)

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