どちらが狂気か2

「地下室に患者を閉じ込めているとか、前から変な噂はあったんです。でも、私もまさか宮田先生がそんなことする筈ないと思っていました」
「…………」
「それでも……噂が本当だったからこそ、私はあんな風に院長室に閉じ込められたんだと思います」
「そんな……」

司郎さんがそんな人だったなんて、信じられない。信じたくない。
けれど私の首を絞め、看護婦さんを拘束した司郎さんの姿を知れば、あり得ないとは言い切れない。

「他の病院の関係者はこのことを知っているんですか?」
「多分、一部の……院長に近しい関係者は知っています。私のように一般勤務の看護婦の間では、ただの噂でしかありませんでしたが」
「それで、あなたを助けた婦長さんは何処へ行きましたか?」
「分かりません。私を助けてくれた後、姿が見えなくて……宮田先生が何処にいるか分からない以上、放送で呼び出すのも怖くてできませんでした」
「婦長さんは、あなたを助けたときどんな様子でしたか?」
「婦長は私を発見したとき、落ち着いている様子でした。宮田先生の行いを以前から知っていたからだと思います」

司郎さんが何を考えて私達に暴行を振るったのかは分からない。婚約者とはいえ、私さえ殺害するつもりだったのかもしれない。このまま司郎さんにもう一度見つかってしまっては、今度こそ二人とも何をされるか分からない。

「とにかく一旦、病院を出ましょう」
「ええ。そうですね」

看護婦さんは恐怖を振り払うように何度も頷く。私達は宮田医院の出口に向かって、一緒に廊下を歩き始めた。

私達は病院の三階にいたため、二人で辺りを警戒しながら三階、二階と階段を降りていった。このまま行けば無事に病院を出られるだろう。
そして一階に繋がる階段を下りようとしたその時。

突然私の背に強い衝撃が当たった。それは誰かに背中から突き飛ばされたような感触だった。その衝撃で、私の体はそのまま一気に階段の踊り場まで落ちた。
体を打ち付けた痛みと朦朧とする意識の中、階段の上から誰かが言い争うような声が聞こえた。
階段の上へ目を上げると、そこには暗闇でもはっきりと目立つ白衣を着た司郎さんと、一緒にいた看護婦さんが立っている。
看護婦さんは「非道い、どうしてこんなことを」と司郎さんに叫んでいた。それで私は、自分が司郎さんに階段から突き落とされたのだと思った。
それを知った途端、階段から突き落とされる痛みよりも、沈むように重く暗い闇が、心の内に広がっていく。

……何故、私は司郎さんからこんな目に遭わされなければならないの?

今日は、司郎さんに会えることを心待ちにしていたのに。

司郎さんは、私との婚約なんて、望んでいなかったのだろうか。

だから、こんなことを?

心の底から、悲しみのようで、恨みがましい感情が沸々と湧き上がってくる。愛情が憎しみに変わるとは、こういうことを言うのだろうか。
震える手を拳に変え、私は全身の痛みを堪えてゆっくりと立ち上がる。

司郎さんは私が手摺に縋り、よろめきながら階段を上がっていることに気付いていないのか、目の前で騒ぐ看護婦さんの頬を平手打ちすると、床に尻餅をついて震えている彼女を引き摺り、何処かへ連れて行こうとする。

「……待って!」

私がそう声を掛けると、司郎さんの足が止まる。

「司郎さん……どうして私を突き落としたの?」

司郎さんの背後からそう呼び掛けると、司郎さんはゆっくりとこちらを振り返った。

今まで何をしていたのか。階段を上がり近くでよく見ると、司郎さんは顔も白衣もぞっとするほど血塗れだった。

「司郎さん。私との婚約が嫌なら、はっきりそう言ってください」

私は女性に暴力を振るう司郎さんの姿を見てしまった以上、以前のように純粋に司郎さんを好きとは言えない。況して、そんな男を夫にするなんて考えられない。
いいえ、暴力どころじゃない。司郎さんのやっていることは犯罪。お父様に事情を話せば、司郎さんとの婚約さえ破棄されるだろう。

「名前さん。俺は君のことは嫌いじゃないし、君のことをよく知りたかったと思っている」

唐突に司郎さんは、淡々とそう言った。

「でも……君も俺も、もう結婚という縁で結ばれることはないだろう」

司郎さんの言葉の真意が分からない。
自分の裏の顔を知られた以上、添い遂げられないと、司郎さんは言いたいのだろうか。

「だから……」

そう言って司郎さんは白衣のポケットから何かを取り出し、それを怯える看護婦さんの口元に押し当てた。途端に看護婦さんは意識を失う。

「何をしたの……!?」

私がそう尋ねても、司郎さんは何も答えず私を見据える。

「君も大人しくするんだ」

司郎さんが気絶している看護婦さんを引き摺ったまま、こちらに歩いてくる。

「嫌……!」

こんな男は、私の知っている司郎さんじゃない。
それとも、これが本当の司郎さんなのだろうか。

コツ、コツ、と暗い廊下に響く司郎さんの足音が、妙な威圧感を持って迫ってくる。

逃げたい。でも看護婦さんを置いて逃げたら、今度こそ司郎さんに殺されてしまうかも知れない。

必死に考えを巡らせる私を見て、司郎さんはクスリと笑った。

「そんなに怖がらなくても……俺は名前さんをどうすることもできないし、名前さんも、俺をどうにかすることはできない」
「それはどういう意味……っ」

司郎さんは後退る私の腕を強引に掴んで私の口元にハンカチを押し付けた途端、視界が暗転した。

―――――

蛍光灯の灯りが眩しい、見知らぬ青白い天井が視界に広がった。

「ここは……」

辺りを見回そうとした時、すぐに異変に気付く。私の両手、両足がベッドに縛られていた。そして、服は真っ白な病院着に着替えさせられている。
隣を見ると、一緒に行動していた看護婦さんも同じようにベッドに縛り付けられていた。
咄嗟に部屋を見回したものの、司郎さんの姿はない。

「ねえ……起きて!」

看護婦さんに話し掛けても、目が覚める様子はなかった。
何処かに逃げる手段はないか必死に辺りを見回すも、縛られた手足の自由を解くものが見当たらない。

その時、ベッドの足下の方向にある扉がガチャリと開く音がした。
扉の先に立っていたのは司郎さんで、手にファイルのような物を抱えている。司郎さんはそれを側にあった机に置くと、私と看護婦さんのベッドへ近付いてくる。
そして私が起きていることに気付くと、フッと口の端をつり上げた。

「今の君に、俺の姿はどう見えているんだろうな……」

司郎さんのその言葉に、私の肌が粟立つ。
女を縛り、その姿態を冷徹に俯瞰する。司郎さんのそんな姿を見て、鬼畜、変態、猟奇者という変質的な言葉ばかりが思い浮かんだ。

私は恐怖や嫌悪感を堪えて、司郎さんを睨み付ける。
司郎さんは私の視線を無視するように、何か準備をしているようだった。

「司郎さん!どうしてこんなことを!」
「動くな」

司郎さんの光のない、氷のような目に射抜かれて、何とか逃れようと暴れていた私は、針で突き刺されたように動けなくなる。

「止めて……」
「落ち着け。君の嫌がるようなことはしない」

この状況で落ち着けるわけがない。それでも命令的に告げられる言葉と冷たい視線とは裏腹に、私の頬に触れる司郎さんの手は妙に優しかった。
一度でも惚れた弱みか、命の危機が迫っているというのに、司郎さんの言葉に従いたくなるような誘惑に駆られる。
冷然としている司郎さんを見上げると、司郎さんは大人しくなった私を見て謎めいた笑みを浮かべていた。

「大分弱っているようだな……せめて、苦しむことのないよう終わらせてあげよう」

そう言って私を見下ろす司郎さんの目には、哀れみのような色が混じっていた。この狂気的な状況に場違いなその目が、かえって司郎さんの狂気を際立たせていた。だがそれも一瞬のことで、司郎さんは突然私の口に吸入器のようなものを押し付ける。

吸入器が当てられた途端、私の意識はすぐに朦朧としていった。ぼんやりとする視界の中、司郎さんがメスを手にして私に何か話し掛けているが、それはもう何を言っているのか、私には分からない。

ただ深い意識の底へ落ちる前に、私を見下ろしながら微笑む司郎さんの目から、涙が零れ落ちた気がした。

―――――

(楽園へ連れて行ってあげる)
(君の命は無駄にしない。俺は使命を成し遂げてみせる)

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