少年時代の淳は両親の厳しい躾けの影響を受けた所為か、自信の無い、劣等感の強い子だった。その頃の淳は両親に叱られると、いつも屋敷の縁側で一人寂しく泣いていた。
「……ううっ……ううう……」
「淳様?」
淳が辛い気持ちのとき、決まって彼の様子を窺いに来るのは、この屋敷に住み込みで働いている召使いの名前という女性だった。淳は両親の前では「良い子」でいるために人形のように大人しくしているのだが、名前には我慢せず子供のまま振舞えるのだった。
「一体どうされたのです、昨日もここで泣いておられましたね?」
どんなときでも自分を否定せず優しく諭すよう問い掛けてくれる名前の前だけでは、淳は家庭の悪口や不満を漏らすことが出来た。
「父さんと母さんは……いつも勉強とか躾とかうるさい……もううんざりだ!」
「旦那様も奥様も、ひとえに淳様を愛しているからこそ仰っているのですよ」
名前はそうして優しい物言いをするが、両親の思うところは「お前は神代家の婿になるのだからそれ相応の教養を身に付けろ」ということだけで、そこに愛なんてものはないと淳は幼心に感じ取っていた。
「僕は……神代の家になんか行かない!!」
淳はボロボロ涙を零しながら泣き喚く。
「僕は、僕は……」
淳は自分を抱き締めてくれる名前の優しい表情を見上げる。
物心付いたときから自分の側にいた名前は、淳にとって母であり姉であり、生まれて初めて恋をした女性だった。
大人になったら僕は名前と結婚するんだ。
でも、その言葉をいつも名前に言うことができない。
意気地のない自分に苛々し始めた淳の瞳に、再び涙が滲んでいく。
「淳様、どうかもう泣き止んでくださいませ」
名前は萎縮している小さな淳の背に腕を回し、あやすようにぽんぽんと叩く。
淳はもう何も言わず、名前の腕の中でただ涙を流し続けた。
―――――
「淳様、今日はこちらをお召しになってください」
「ああ……」
十数年後、淳は青年となり、幼少期とは雰囲気も随分変わった。いつも泣いて暗い影を落としていた瞳は鋭さを帯びて強気なものになり、背もすっかり伸びていつの間にか名前を追い越すほどになっていた。
「淳様はご立派に成長されましたね。幼い頃はよく泣いて……それも可愛いものでしたが」
「可愛いなんて言われても、俺は嬉しくはない」
「ふふ、すみません。淳様がもうすぐ一人前になられると思うと、私は本当に嬉しいのです」
「…………」
淳は複雑な気持ちで名前の言葉を聞いていた。今日は羽生蛇村の神代家へ向かう予定になっている。自分の婚約者になる娘との顔合わせ―つまり見合いだ。自分の着替えを手伝ってくれる名前を淳は見下ろす。
「……それは、俺が無事に神代の婿として務めを果たせそうで安心ってことか?」
そう呟く淳の声にはいつになく不機嫌な響きが混じっていた。淳の不穏な気配を察して名前が彼の顔を見上げると、淳は怒っているような悲しんでいるような複雑な表情で名前を見下ろしていた。
「私はそのような意味で言った訳では……」
「……もういい」
自分でやる、というように淳はネクタイを結んでいた名前の手を振り払って自分で締め直す。
「淳様……?」
「何でもない……気にするな」
幼い頃から名前へ抱き続けてきた淡い想い。だが、成長していくうちに気付く。それは所詮叶わぬもの。
いい加減大人げないことを言っている歳ではない。幾ら乳母日傘で育った淳とてそれだけの弁えはあった。
淳はネクタイを締め終えると鞄を持って足早に玄関まで歩く。名前も慌てた様子で彼の後に続いた。
「行ってらっしゃいませ、淳様」
礼儀正しく頭を下げて名前は淳を見送る。昔から見続けてきた、当たり前だったこの光景。この姿をあと、何度見られるのだろうか。
淳は何も言わずに玄関扉を開け、玄関口で待機していた自家用車に乗り込んだ。淳が後部座席に座ったのを確認すると、運転席に待機していた使用人が車を発進させる。
走行中の車の窓から見える景色を眺めつつ淳は思う。
俺は俺なりに名前の誕生日には贈物をしたり名前の望むことで叶えられることは何でも叶えてきた。勇気を振り絞って名前は俺にとってかけがえのない大切な人だと言ったこともある。
だが名前は「ありがとうございます、勿体ないお言葉です」と感謝の言葉を述べるだけ。俺の言葉にどういう意味が籠められているのかを少しも勘繰ったりしない。
何故、名前はいつも俺の気持ちに気付かないのだ。いや、俺の遠回しなアプローチも悪いのだと思う。だが神代家の婿になる者として、他の女性に愛を告げることは俺には許されない。
だからそれとなく名前に気付いて欲しかった。男気のないやり方だと分かっている。身分など関係なく、好きなら好きと言えば良いだけなのだから。
けれど、俺にはそれが出来なかった。「好き」。たった二文字の言葉を何十年も言うことが出来ないなんて他人から見たら阿呆らしく思えるのだろう。
だが俺にとってそれは重い言葉だった。その言葉を名前に告げれば、俺だけでなく名前さえ俺の実家で居場所を失う。俺の家系も狂ってしまう。
淳が回想に浸る内に、車は羽生蛇村に到着した。神代家の屋敷に通されて客間に入ると、そこには既に見合い相手の神代の娘と仲人が居た。
見合い相手は俺と同じ年頃の亜矢子という女だった。真っ白な肌に流れるような黒髪―人形のように美しい顔立ちをしていた。だが、その美に心動かされるものは感じなかった。俺の心が未だ名前に向いているからなのか、造りもののような静寂的な美に愛を感じられないだけなのか。それは俺にも分からない。
見合いは手際の良い仲人のおかげで何も話さずとも滞りなく進んだ。俺がしていたことはただ机を隔てて亜矢子の前に座っていただけで、亜矢子もそれは同じだった。俺と神代の見合いの席なんてそもそも建前で、余程のことがない限り既に結婚は確定しているのだからそれもそうだ。
仲人がお互いの紹介を簡単に俺と亜矢子に説明した後、仲人は部屋を去り俺と亜矢子の二人だけになった。襖が閉められて人の気配が去ると、今まで人形のように話さなかった亜矢子が唐突に口を開いた。
「あなた、この婚約に乗り気じゃないのでしょうね」
不意を突く言葉と、淑やかそうに見える亜矢子の口からそんな言葉が出るとは思わず、俺は言葉に詰まる。
「……どうしてそんなことを仰るのです?」
「だってあなたの目がそう言っているんですもの」
目は口ほどに物を言うものよと言って、亜矢子はクスリと笑う。
「そうね……きっとあなた、恋をしているでしょう?」
「いきなり何を……」
「そういうことは隠していても分かるものなのよ。特に女の前ではね」
否定しない俺の態度を是と取ったらしく、見当が的中したと思ったのか亜矢子は少し勝気な態度で言葉を続ける。
「でもここに来たってことは、想い人への未練は断ち切るということ?それとも……」
亜矢子の瞳がこちらを窺うよう、蛇の目の如く黒く輝いている。その鋭い瞳の前では取り繕った嘘は通用しないと思った。
「……確かに貴方の仰る通り、俺には好きな女がいます。ですが……それは叶わぬものです」
「そう……本当に未練は無いと、そう受け取っても宜しくて?」
それとない風を装って亜矢子は言っているが、核心を突く質問に俺は直ぐ答えることができない。
何を、躊躇っている。何故声が出ない。ただ一言、「はい」と答えれば良いだけだ。
だが、言葉を発することを拒むかのように、自分の口が思うように動いてくれない。
客間に違和感のある静寂が満ちる。数秒の間がとても長く感じられた。
そのまま俺が何も言わないでいると、唐突に甲高い笑い声がそれを切り裂いた。亜矢子が笑い出したのだ。
「そんなに緊張なさらないで。私は神代家の決まりなんて本当はどうでも良いのよ。ただ決められた相手と結婚する。子どものときからそう言われて育ってきただけだもの」
それは俺も同じだ。しかし亜矢子はその運命を受け容れて生きることができているようだ。それはある意味幸福なのかもしれない。ただ、俺はそうではない。
「素直な方ね。悪い人でもなさそうだし。私はあなたとの婚約に特に反対はしないわ」
足が痺れたと言って、亜矢子は正座していた座敷から立ち上がる。
「お返事は、気長に待ってるわ」
少し外の空気を吸ってくると言って、亜矢子はそのまま部屋を出た。一人残された空間には静けさが宿る。
俺は机に肘をつき、両手で自分の頭を抱え込んだ。
見合い相手の家に来てまで名前のことを考えるなんて、俺はどうかしている。
俺は神代の婿になるんだ。「ならなければならないんだ」。
しかし、そう思い込もうとすればするほど、俺の頭の中には名前の顔ばかり浮かんだ。
―――――
帰宅途中、淳は車内で名前が自邸にやって来た経緯を思い返していた。
父の話だと、そもそも名前は羽生蛇村近くに住んでいた学者の家で手伝いの仕事をしていたらしい。父とその学者は知り合いであったため、その学者が亡くなったときに名前は縁あってうちの使用人として住み込みで働きに来たのだ。名前は気遣いが細やかな性格でよく働く女あったので、人を見る目に厳しい父も名前がうちに来ることを許したのだろう。
名前の両親はもう他界しているらしい。だから、名前にはもう帰る場所がない。両親は名前を使用人としか思っていないだろうが、俺にとって名前は家族も同然だった。もし婚約が破綻になれば、俺の面倒を見続けてきた名前も役立たずとして屋敷を追い出されることになるだろう。だから、名前を守るためにも、俺は神代に婿入りしなければならないのだ。
俺には、生まれながら何の選択肢も与えられていない。自分で人生の方向を決めることも許されない。口惜しく、不甲斐ないほどにどうすることも出来ない。
膝の上に置かれた淳の手は、強く拳を握る。
「何故……」
悔しさに胸が溢れるほど、想い焦がれるのは名前のことばかりだった。
諦めることには慣れている。いずれ神代の婿になることを分かっていて、やりたくない勉強も、習い事も、何でもこなしてきた。やりたいこともほとんど出来ず、厳しい親の躾にさえ耐えてきたのだ。
だが、好きな女を諦めるということは、こんなにも難しいことなのか。
そのことに気付いたとき、頬を冷たい何かが流れていく感覚がした。
淳はそれで、どれだけ自分が名前を愛しているのか改めて自覚した。