やがて宮田と名前は合岩岳の眞魚岩水門に到着した。
宮田は持ってきた爆薬を水門の側に設置すると、名前と二人で水門から離れて導火線に火を点ける。爆薬に着火すると辺りに爆発音が響き、水門がガラガラと崩れて、塞き止められていた眞魚川の赤い水が一気に濁流する。
そのまま水門の上からその光景を眺めていた宮田と名前の耳に、ふと水音とは違う人の呻き声のようなものが聞こえ、そちらを見下ろす。
「こ、これは……」
そこには泥人形のようなものが救いを求めるように腕を伸ばして、悲痛な呻きを上げて彷徨う姿があった。
「先生……あれは……」
宮田の視界を借りてその光景を目の当たりにした名前は宮田を窺うが、宮田は何も答えない。宮田は、怪異の前夜に見た悪夢を思い出していた。
――あれは、夢などではなかった。
地の底でサイレンの誘惑に抵抗し続けてきた人々の叫び……
「そうか……このサイレンの誘惑に耐えて……何十年も、ここで……」
宮田は微かに声を震わせながら呟いた。
「永遠に生きるってことは、永遠に苦しむことと同じだな……」
宮田は懐から宇理炎を取り出し、それを握り締めた。
「……終わらせてやるよ、全部」
宮田はそう言うと、名前に目を移した。
「あれは嘗てこの村で暮らしていた人達だ……長い間呪いに耐えて、この村の底で苦しんでいたんだ」
「あれが、人?……そんな……」
「今この地獄を治められるのは俺しか居ない。君は逃げるんだ、名前」
「……そんな、私には先生を置いて行けません!!」
名前は宮田の腕を掴んだが、宮田の決意は変わらなかった。
「……逃げるんだ。私にはやらなければならないことがある」
「……先生」
「この道を真っ直ぐ行った先に、村の出口がある。もしかしたらまだ、そこは現世と繋がっているかも知れない。さあ、早く行くんだ」
「そんな、ここまで来て……」
「言っただろう。私にはやらなければならないことがある……ここで逃げれば、私は永遠に悔いを残すことになるんだ」
宮田の言葉に強い決意を感じた名前は、それ以上何も言うことは出来なかった。
宮田の腕を掴んでいた手を離し、名前は無言で宮田から踵を返す。
「……私、待っていますから。宮田先生のこと」
本当は宮田にここまで助けてくれてありがとうと言いたかったが、それを言ってしまえば別れの言葉になってしまうような気がした名前は、そのまま宮田に言われた通り真っ直ぐに道を歩き出す。
「……離れても、俺の心は名前の側に居る」
宮田は名前の背に向かってそう呟くと、救いを求める村人達の元へ向かう。
あの中には、俺が殺した人間も居るのだろう。
今更罪滅ぼしだとか、そんな偽善めいたつもりで俺はここに居るのではない。
俺は俺の望むまま、求導師としてこの村の人々を永遠の呪縛から解き放つ。
それが今の俺に残されている、俺の役目だから。
彷徨う村人達の中に佇んだ宮田は、宇理炎を力強く握り締め、空高く掲げた。
「煉獄の炎……俺の命と引き代えだ」
宮田の体が光に包まれ、目の前の地面が罅割れたかと思うと、巨大な奈落が口を開ける。
そこから青白い炎が噴き出し、無数の炎の筋が地上に伸びる。人々は自らその救済の炎へ飛び込んで行った。
宮田の意識は遠のき、その場に崩れ落ちる。
「先生……」
「…………」
命と引き代えに煉獄への道を開いた宮田は、薄れ行く意識の中で美奈と理沙の姿を見る。
「ああ、今行くよ……」
宮田は炎が噴き出す奈落へ歩み寄り、ふと名前の去った方角を見る。
「いつかまた会おう、名前」
宮田は微笑んでいた。それは宮田の最初で最後の、偽りのない心からの笑顔だった。
目を閉じた宮田は、そのまま奈落の底へ身を委ねた。
―――――
宮田と別れた名前は不意に零れそうになる涙を堪えながら、付近を徘徊している屍人達の視界をジャックしつつ宮田に教えられた道を辿っていた。
そして、その道中で意外な人物に出会った。
「……名前おねえちゃん?」
「その声は……晴海ちゃん!?」
聞き覚えのある少女の声に、名前は足を止め顔を上げる。
「うん、晴海だよ!」
名前の方へ小さな足音が近づいてきたかと思うと、名前の体に温かい感触がぶつかる。
「晴海ちゃん……!」
自分の体に縋ってきた晴海を名前は抱き締めた。
四方田晴海は羽生蛇村に住んでいる小学生の少女で、事故で両親を亡くして以来、心に深い傷を抱えていた。そうして何度か宮田医院に通院し、心療カウンセリングを受けていたところ、名前も記憶喪失の治療の一環でカウンセリングを受けていたことがきっかけで晴海と知り合いになった。
「良かった……無事だったのね!」
「うん。玲子先生が助けてくれたの」
晴海の担任教師の高遠玲子のことは、晴海の通院に付き添って来ていたことで名前も知っていた。
「……玲子先生はどうしたの?」
「晴海を庇って……先生は……」
そう言って晴海は啜り泣く。その先を言わずとも、名前には晴海の言いたいことが分かった。
「……ここは危ないから、一緒に逃げられる場所を探そうね」
「うん……」
そのまま名前が晴海の背中を宥めるように優しく擦り続けると、やがて晴海も落ち着きを取り戻してきた。
「……晴海ちゃん。お願いがあるんだけど、私に晴海ちゃんの目を借してほしいの」
名前の目が見えないことを知っている晴海は、自分もここに来るまで人の目を借りる力を使って来たので、名前の言葉の意味を察することができた。
「晴海の目を借りれば、おねえちゃんは目が見えるの?」
「うん、そうなの」
「……分かった。晴海がおねえちゃんの目になってあげる」
「ありがとう……晴海ちゃん」
名前は晴海の視界をジャックすると、晴海の手を引いて瓦礫の上を歩き始めた。
あれからどれほど歩いただろうか。宮田に言われた通りの道を辿り続けたものの、所々で堆積した土砂や倒壊した家屋が立ち塞がり、それらを避けて迂回する内に、次第に何処へ向かっているのか、果ては同じ場所を歩いているような錯覚に陥り、名前の胸に焦りが生まれ始める。
「大丈夫、きっと助かる……」
せめて晴海ちゃんだけは助けたい。晴海ちゃんを庇った玲子先生の為にも。
その気持ちが揺らがないよう、名前は晴海の手を強く握った。
「……名前おねえちゃん?」
名前の手に力が籠ったことで、晴海は名前を見上げる。
「晴海ちゃんは、私が護ってあげるからね」
名前がそう言ったとき、ふと一筋の青い光のようなものが名前達の前を掠めた。
「!」
思わず名前は晴海を庇うようにその光から遠ざけるが、晴海は呆然とその光を見詰めていた。
「きれい……」
晴海はそう言って突然現れた光に見入っている。
「おねえちゃん、この光……晴海たちを何処かへ連れて行こうとしている気がする」
「……?」
晴海にそう言われてみれば、まるでその光は名前達に付いて来いと言っているように、何処かへ消えることもなくゆったりと空を漂っている。
「名前おねえちゃん、行ってみよう?」
晴海はそう言って名前の手を引くが、名前は動かない。名前は宮田と同行して見てきた異様な村の光景を思い出して、疑心暗鬼になっていた。
「……おねえちゃん、きっと大丈夫だよ。この光、とっても優しい感じがする」
「……晴海ちゃん」
確かにこうして延々と彷徨っていても助かるとは限らない。いや、宮田に示された道を見失った時点で、恐らく助からないだろう。
だったら今は、何でも頼ってみるしかない。
それに晴海の言う通り、名前はこの青い炎のような光に不思議と親しみのようなものを感じた。
名前が晴海の手を引いて歩き始めると、光もそれに続いて名前達の前を浮遊しながら進んでいく。
そうして光に導かれるまま進んでいくと、ふと名前達の前方に小屋のようなものが見えた。光はその小屋の中へ吸い込まれるように入って行く。
今にも崩れそうなその小屋を見て名前は立ち止まったが、ここまで来て後戻りする訳にもいかなかった。
「晴海ちゃん……入るよ?」
「……うん」
名前が繋いだ晴海の手を強く握り締めると、晴海もそれに答えるように名前の手を握り返す。意を決した名前と晴海は、同時に小屋の中へ足を踏み入れた。
すると突然視界が白い光に包まれ、その眩しさに二人は目を瞑った。
次に目を開けたとき、頭上から鳴り響く騒音と強風に名前は驚いて目を開けた。
「何……!?」
名前が見上げると、バラバラと凄まじい羽音をさせながら上空をヘリコプターが旋回していた。
名前と晴海は小屋に入った筈だがその小屋は何処にもなく、名前達を導いていた青い光も見当たらない。
「ここは……」
辺りは相変わらず倒壊した家屋や瓦礫の山に埋もれていたが、今まで自分達が居た場所とは違う雰囲気を感じ、名前は宮田に言われたことを思い出す。
宮田先生がこの村の呪いについて話したとき、村が異界に取り込まれたと言っていた。
でも、ここは違う。あの澱んだ暗い世界とは違う、一面に広がる青空、新鮮な空気……
名前はそこで気付いた。自分の目が見えていることを。
空から目を下ろせば、自分の足元には晴海が倒れていた。
「晴海ちゃん!」
名前は晴海を抱え上げる。晴海は気絶しているだけのようで、何処にも怪我をしている様子はなかった。
もしかすると、私達は……現世に帰って来たのではないか。
名前は直感した。
名前は晴海を抱えたまま、再び空を見上げる。
「た……助けて!!助けてええっ!!」
名前は必死に叫び、ヘリコプターに向かって必死に手を振った。
―――――
一方、自衛隊災害派遣部隊メンバーの三沢、沖田、永井はヘリコプターの機内から地上を見下ろしていた。
「ん……あれ?」
「どうした永井?」
双眼鏡越しに村を見下ろしていた永井が声を上げたので、パイロットの沖田が声を掛けた。
「そ、遭難者発見しました!!」
「何だって?」
「貸してみろ」
三沢は永井から双眼鏡を受け取ると、永井が見ていた方角を覗き込む。その先には名前が晴海を抱えてこちらに手を振っている姿が映っていた。
「遭難者発見。沖田、そのまま北に進め」
「了解」
沖田は三沢の指示通りに機体を操縦する。その間に三沢は命綱のロープを自分に装着した。
「永井、お前は機内で待機しているんだ」
「りっ、了解です!」
遭難者の発見は絶望的とまで報道されている今回の土砂災害の中、奇跡的に名前達を発見したことに湧き立っているのか、新人の永井はどこか落ち着きがない。
沖田が名前と晴海の真上付近に機体を移動させると、三沢は命綱を頼りに機内から地上へ下りて行く。
着地した三沢は一度、先に晴海を抱えて機内に戻ると、再び下りて今度は名前を抱えて上って行く。その間三沢は終始無言だったが、ふと足元を見ると、驚きに目を見開いた。
「う……うわぁああああ!!」
三沢は突然取り乱し、叫び声を上げたかと思うとそのまま気絶してしまった。
その異変に気付いた沖田が無線で三沢に呼び掛ける。
「三沢一尉……三沢一尉!!」
三沢の胸元の無線機から沖田の声が聞こえているが、三沢は意識を取り戻す気配はない。
「永井!お前が一尉と遭難者を引き上げるんだ」
「はっ、はい!!」
三沢は結局そのまま意識を取り戻すことなく、永井が沖田の指示に従いながら二人の命綱を引き上げることになった。
救助した名前と晴海を病院へ緊急搬送した後、その日の救助活動を終えた沖田と永井は意識不明で同病院に搬送した三沢の元を訪れていた。
「先輩、具合はどうですか?」
「……ああ、心配ない」
「これ、気が落ち着いたら飲んでください」
「すまない、沖田」
沖田は自販機で買った栄養ドリンクを三沢のベッド脇に置く。
「三沢先輩、突然気絶するなんて一体どうされたんですか?」
意識を取り戻した三沢に永井は単刀直入に尋ねる。普段は冷静沈着で寡黙な三沢が意識を失う姿など見たことのなかった永井は、それだけでも驚いていた。
三沢は何処か遠くを見るような目をした後、口を開く。
「……無数の手が」
「……?」
「いや……何でもない」
三沢はそう言うと、溜息を吐いて額を押さえる。
あれは……夢だったのだろうか。
無数の手が蠢く闇に、一人の男が立っていた。
その男の体は青い光に包まれていて、こちらを真っ直ぐに見て穏やかに笑っていた。
その男の口元が俺に向かって何か言ったように動いていたのだが、その声は聞き取れなかった。
(……嫌な予感がするな)
三沢はふと窓から空を見上げる。窓の向こうには、夏独特の茜色の夕暮れが一面に広がっていた。
情緒あるその景色も今の三沢にはまるで空が血色に染まった心地がして、例えようのない恐怖が込み上げる。
「沖田先輩……一体どうしたんですかね?三沢先輩」
「こら、静かにしろ永井。先輩はお疲れなんだよ」
三沢を気遣って一旦病室から出た永井と沖田が病院の廊下でそう話している声を聞きながら、三沢は静かに目を閉じた。
―――――
(名前を助けていただき、ありがとうございます)