循環スル贖罪1

診察室で今日の患者カルテの確認を終えた私は、診察室を出てすぐ側にある階段から地下へ下り、暗い廊下を歩いて中庭へ向かった。扉を開けると、森閑とした夜気の中に静かな風が吹いている。仕事中は殆ど院内に籠もっている私は、深呼吸して新鮮な空気を取り込んだ。
空を雲が漂々と流れ、その間から月が姿を現しては雲に隠れるのを繰り返している。消灯時間を過ぎてから外に出ることが多い私は普段から懐中電灯を持つようにしているが、月の明るい今日は必要なさそうだった。

月明かりを頼りに腕時計を見ると、時刻は深夜二時を回っている。私は病棟の中庭から少し離れた場所にある別棟に向かう。そこがこの病室の院長室だった。
院長室の扉を開けて照明を点けると、そこには質素な犀賀医院の病室とは異なる空間が広がっている。ここは先代院長である義父の嗜好で造られた部屋で、天井には小さなシャンデリア、洋風の壁紙の上には油画が飾られ、アンテイークのソファや机、棚なども置かれている。

この部屋には私の私物は殆どない。あえて私物というなら二つだけ。
一つは壁に掛けられた鹿の剥製の首。これは私が村の森で仕留めたものだった。狩猟は私の唯一の趣味である。
命を救う筈の医者が命を奪うのを矛盾と思う人もあるかも知れない。ただ、私はその考えこそが矛盾であると思う。人間を含め、この世の生物は他を殺さねば生きられない仕組みになっている。それが出来ないものは飢えて死んだり、他の種に喰われて淘汰される。人間の場合は、単に自分で手を下すか下さないかの違いである。
それは医者だろうと、神に仕える巫女や修道士であっても変わりはない。寧ろ、自らの手で命を奪う事によって、命の重みを知ると言う事もある。私が狩猟をするのは、その感覚を忘れないためであった。

もう一つは本棚に並ぶ書籍。ざっと見て百冊以上はあるだろうか。それは私が長年掛けて集めたもので、全てこの羽生蛇村に関するものだった。
私は一人院長室に籠もって、これらの文献を読むことが習慣になっている。それは探究心や学究心と言うより、私が犀賀家当主として村の重責を任されているからだった。羽生蛇村について無知な事があった場合、それが元で御蚕子様迎えの儀式に影響を及ぼすか分からないと危惧する、単なる私の心配だった。

余談になるが、医者には心配症が多い。いや、心配性の方が向いていると言えるのだろうか。
医者はその職業柄、常に最悪の事態を想定し、それに備えていなければならない。万が一Aであったら、Bの場合は、Cだったらどうする……と思い付く限りの可能性を考えられなければ、医者には向いていないと言う人さえいる。
だから医者には、注意深い、神経質で細かい性格、ネガティブであるだとか、そういう性格の人が向いているというのを私は学生時代、何かの本で読んだ事がある。

自分で言うのも変だが、私は幼い頃はやんちゃで悪戯もするような、至って普通の、明朗な子供だった。しかし事故で両親を亡くし犀賀家に引き取られてからは義父母の下、愛情の欠片も無い環境で暗欝とした幼年期を過ごす事となった。その所為か青年時代ともなると、私は自覚する程無感動な青年になっていた。

その頃になると、自分が何故犀賀家に引き取られたのか、義両親の目的も分かり始める。彼らには子供がなく、元から私に犀賀医院を継がせるつもりだったこと、そのために私を引き取ったということを。

私が医大を卒業し、当時院長であった義父の後を継いだ日の夜の事は今でも忘れていない。
ある日、義父は私を立入禁止になっている犀賀医院の地下室へ連れて行った。それは私がじき院長を継ぐからには、義父は私に犀賀医院の全てを教えておく必要があると判断したのだと思っていた。
義父は何も言わずに地階へ下り、私も黙ってその後に続いた。地下室へ続く扉を義父が鍵を使って開けると、そこには鉄格子の嵌まった暗い部屋が廊下の先まで続いていた。

(何故、こんな場所が病院の地下に……)

嫌な予感がしたが、引き返すこともできない。
義父は懐中電灯で足元を照らしながら暗い廊下を歩き始める。そのとき、ふとその灯りで鉄格子の奥がぼんやり照らされた。そこに人の姿がぼうっと見えたとき、私は思わず息を呑んで立ち止まった。

「と、義父さん……」

私が呼ぶと義父は振り向いた。その顔は懐中電灯に照らされ、異様に不気味だった。義父が義父でないように見えたのは、その所為だと思いたかった。

「ここは、一体何なのですか……?どうしてこんな地下に人が……」

地下室は病室というより牢屋のようだった。こういう場所に入れられるのは、叫んだり暴れたり噛み付いたりする患者で、ここで隔離し、容態の経過を見ているのだと私は信じたかった。

「……ここに居るのは、この村の秘密を知った人間だ」

義父の呟いた言葉に、私は言葉を失った。
つまり入院では無く幽閉……いや、監禁しているという事になる。

「お前も院長になるからには、この場を継ぐべき責務がある」

義父はそう言って再び廊下を歩き始める。牢部屋に入れられている村人達は皆一様に寝台に眠っているか地べたに蹲ったりして、無言でぼうっとしていた。
そうして義父は一番奥にある牢部屋の前で立ち止まった。鉄格子で仕切られた部屋の向こうを見ると、一人の女が部屋の隅に横たわっている。

「この女は神代家の召使いだったが、そこでこの村の秘祭について知ってしまった。絶対にこの医院から出さないよう、神代家から言付かっている」
「…………」

女は眠っているのか、目を閉じて動かなかった。義父は女に背を向けると、私を促して地下室から出た。

「今日見た事は私以外の人間に他言してはいけない。分かっているな?」
「ええ、承知しています」

私達はそのまま更衣室に向かい、白衣から私服に着替えてその日は帰宅した。

―――――

義父に地下室の事は他言しないと言ったが、行かないとは言っていない。
その後、私は義父に内緒で一人地下室を訪れた。私は何故か、どうしてもあの女が気に掛かっていた。

患者が寝静まる夜、私は地階へ続く階段を下り、義父の隠し場所を掴んで手に入れた鍵で扉を開けた。幾つかの牢部屋を通り過ぎ、一番奥の間に辿り着くと、以前眠っていた女は壁に上体を預けて座り込んでいた。私は懐中電灯を点けて女の方をを照らす。

「……おい、君」

私が女に呼び掛けると、女は首だけを動かして私の方を見た。

「……誰?」

女は呆けたように開いた口元からそれだけ、零すように言った。

「私はこの医院の関係者だ」
「……そう」

女はそれだけ言って私から視線を逸らすと、暗いコンクリートの天井を仰いだ。

「君は、神代の召使いだったそうだな」
「ええ、そうよ。美耶古様の身の回りのお世話を任されていました」
「君の名前は?」
「苗字名前」

女―名前はあっさりとそう言った。

「ねえ。私、ここで死ぬんでしょう?」
「……急に何を」
「分かっているのよ」

名前は溜息混じりに呟く。

「私はこの村の秘密を知ってしまった。もう一生、ここから出られないんでしょう?」
「…………」

何も知らずに閉じ込められているのかと思っていたが、名前は自分の置かれている状況を理解していた。

「……一層、あなた私を殺してくれない?」
「……私にそうする権利はない」
「……なら、私の前から消えて」

名前はそう言って私に背を向けると、部屋の奥にある古びたベッドに横になった。もう会話するのは無理そうだと思った私は、地下室を後にした。

階段を上がる途中、私は複雑な気分だった。
どうにかして名前を助けたい気持ちはある。だが、私はこの医院の後継者。彼女を逃がす事は出来ない。

運命に逆らう事が出来ないのを私は知っている。両親を喪ったあの日から、人生が簡単に一変してしまうことも。

だが、例え運命に逆らえずとも、目の前にある現実をどうにかできないものかと私は思っていた。

―――――

翌日のこと。
苗字名前が逃げたと今朝突然、義父が私に言った。
直ぐに義父や私は勿論、地下室の存在を知っている医院の関係者を含めて、手分けして村中を捜索する事になった。
名前を捜しながらも、私は出来ればこのまま彼女に逃げ切って欲しいと思っていた。

「……!」

しかし、私は見付けてしまった。
名前は波羅宿集落の外れにある森を彷徨っていた。逃げている途中に怪我をしたらしく、足を引き摺っているのが見えた。
このまま見逃せば、名前は逃げ切れるかも知れない。一瞬そう考えた。だが、怪我を負った状態でこの村から逃げ切れる可能性は低い。
そう判断した私は、名前を保護する目的で彼女に近付いた。

「……誰!?」

私が近付いて来る足音に気付いて、名前は振り向いた。

「私だ」
「……あなたは」

名前は警戒しながらも、逃げはしなかった。

「君を危険に晒す気はない。ただ、その足の怪我を私に治療させてくれ」

自分の体力に限界が近付いている事を察しているのだろう、名前は躊躇いながらも渋々頷いた。私は名前の体を支えながら、取り敢えず森を抜ける為に出口へ向かった。
すると突然、木陰から何かが風を切って飛来し、名前の首に突き刺さった。

「……うっ」
「名前!!」

忽(たちま)ち名前は気絶した。私は名前の体を受け止めながら名前の首に刺さったものを見た。そこには狩猟用の麻酔銃が突き立てられていた。麻酔銃の飛んで来た方角を見ると、そこには義父が立っていた。

その後、私は義父と共に名前を連れて犀賀医院に戻った。その頃にはすっかり日も暮れて、辺りはいつの間にか夜の静寂に包まれていた。
病院は既に消灯時間を過ぎており、義父が持っていた懐中電灯の明かりを頼りに、気絶している名前を抱えながら私は歩いた。

「愚かな女だ。村から逃げ出せたとしても、私達の追手からは一生逃れられないのと言うのに」

名前は地下室に戻すのではなく、患者用の病室に寝かせることになった。それで、取り敢えず名前の命は助かるのだと思った私は内心安堵していた。
だが義父は、いつの間に用意していたのか白衣のポケットからメスを取り出し、それを私に手渡した。

「これを使ってこの女を始末するんだ」

始末―私は一瞬、義父の言葉の意味が分からなかった。だが義父の目と手渡されたメスを見れば、その意味は直ぐに理解出来た。
殺せ、と言っている。

「この女はもうこの病院から出る事を許されず、死ぬのを待つだけの運命だ。しかし、今回のようにまた逃げ出されたりするのは困る」
「だから、殺すのですか?」
「そうするしかない」

余りにも残酷な義父の宣告に、私は言葉を失った。


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