闇の中で、叫び声を聞いた気がした。
佐助はハッと目を開き、躑躅ヶ崎館を抜け出す。忍びであろうと任務以外に無断で外出する事は禁止されているが、最早そんな事は今の彼の頭には無かった。半月の如き軌跡を描きながらいとも容易く堀を飛び越え、疾風のように木々の合間を駆け抜ける姿を、月だけが見ている。
ものの数分で城下町が視界に入ると、やがて佐助の目に飛び込んできたのは、一本の橋だった。
橋の上に、誰か居る。一人では無く少数。恐らく四人程。
その内の一人が、何かを振り上げている。
振り上げられたそれが月光を受けて光った瞬間、その光の下にいる女を佐助は見逃さなかった。
お前を、殺させはしない。
「ギャアアアアーッ!!」
一瞬のことに、その場にいた全員は何が起こったのか分からなかった。
ただ、闇に血飛沫が舞う。斬られた人間の腕や足が橋の下に落ちていく。地獄に引きずり降ろされるが如く、男達の断末魔が響き渡る。
漆黒の風が止む頃には、そこに一人の男が立っているだけだった。
「名前……大丈夫か?」
「誰……?」
風の強さに今まで着物の袖で顔を隠していた女は、男の声に顔を上げる。
「俺様だって。声で分かるだろ?」
「……その声は……佐助さん?」
夜目の利く佐助とは違い、橋の上に座り込んでいた女―名前は月光を頼りに目を凝らす。
佐助は名前に向かって手を差し伸べようとしたが、手甲には血が付着していた為、それを悟られぬようさりげなく手甲を外した。
恐る恐る佐助の手を取った名前を、佐助は引き起こしてやる。漸く立ち上がった名前を見て、佐助はフウとため息を吐いた。
「又、抜け出して館に帰ろうとしていたのか?」
「…………」
「名前……俺様の話、聞いてんの?」
名前は佐助の主・真田幸村の身の回りの世話役を務める女性である。
主の事となると何かと面倒見の良い佐助と名前は次第に打ち解けるようになり、何時からか他愛ない話も交わせる程の仲になっていた。
佐助の言葉に何も答えず唯俯く名前を見て、佐助はやれやれと首を振る。
「だからさ……近頃この辺は危ないから近付くなって、俺様言っただろ?」
「……すみません」
この頃、館周辺に不審な人間が出没しているという情報が、武田軍の内で交わされている。
その怪しい人物たちは夜盗のような身形をしているが、佐助がその後をこっそり尾行していくと、その実は他国の間者である事が判明した。つまり、他国の人間が夜盗に扮して甲斐の内政内情を探ろうとしているらしい。
こういう動きが頻繁になってきている事からして、そろそろ戦が近いのではと武田軍の間でも噂になっている。そのため近頃の躑躅ヶ崎館は何時もより兵や忍びを多く張り巡らせ、厳戒態勢を敷いている状態だった。
「俺様が居たから良かったけど、もう夜は出歩くなよ?」
「……はい」
叱るような、呆れたような佐助の声音に、所在なげに俯いた儘の名前を見た佐助は苦笑した。
「ま、俺様がこうして来たからにはもう安心しなって。な?」
「……佐助さん、ありがとうございます」
幸村の世話役である名前は、今は躑躅ヶ崎館を離れて暮らしている。それは近々戦が起こるおそれがあるため、女子供は館から非難させよというお館様からの指示だった。
名前は幸村や佐助にとっても大切な存在だ。
名前は熱血漢で剛直な幸村の気性も受け容れ包み込んでしまう、兎に角心の広い女性だった。二人を見ていると、柔能く剛を制すとはこの事かと、佐助は思わせられる。
幸村の世話役を務められるのは名前しかいない。それは幸村と名前の普段の様子を見ていれば、誰もが納得できる事実だった。
今は躑躅ヶ崎館、そして幸村の居城・上田城にも何時敵が攻め込んでくるか分からない。そのため名前は暫く幸村が行き付けている甘味処に身を置いている。
だが、名前もただ大人しく名前を離れた訳ではない。
佐助は三月程前に交わした名前との会話を思い返した。
『私も館に留まります!』
『駄目だ。危ないって』
『某も名前が側に居てくれれば心強いが……其方の身を危険に晒す訳にはいかぬ』
『幸村様や佐助さん達を置いていくなんて、私には出来ません!!』
『それでも行くんだ』
『……どうして』
『……名前。これはお館様の命令でござる。どうか聞き入れてくれ』
『…………』
お館様の命令でもあるが、旦那や俺も名前が安全な場所に居れば、安心して戦に臨める。
佐助が説得するようにそう言うと、名前は着物の裾を掴んで俯く。
『私は……足手まといということですね』
『そ、そういう訳ではござらぬ!某は名前に万が一のことがあったらと思うと……』
名前を励ますように幸村は名前の手を握る。女に免疫がない幸村も、名前には自然と触れることができた。
『……分かりました。ご命令に従います』
幸村を困らせてはならないと思ったのだろう。名前はそれ以上何も言わずに従った。
「佐助さん?」
名前の声で我に返った佐助は、自分が考え事に耽っていた事に気付き、困ったように頭を掻いた。
「悪い悪い、ついボーっとしてたわ。さては歳かな?」
おどけてみせる佐助を見て、名前も笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
「じゃあ行くとしますか」
佐助が歩を進めようとした時だった。
「……名前?」
彼女は俯いたまま、その場から動かなかった。
「……帰りたいです」
「……帰るって。今から」
「違います!そういう意味じゃないです」
「館へは帰らせない」
佐助は名前の目を真っ直ぐ見ながら、言った。
彼女が自分を見て、心なしか脅えているように見えた。だが今はそれでも良かった。
「帰るんだ」
「…………」
「大丈夫だ。何時か必ず……旦那と俺が迎えに行く」
佐助は彼女の手を引くと、ひたすら歩いた。
その間名前は何も言わなかった。
そう、これで良いんだ。これで-
「勝手に、決めないでください!!」
佐助の体に、軽い衝撃が走った。
「名前……?」
振り向けば、名前が佐助の背中に寄り添っていた。
「私にだって、気持ちがあります!!佐助さんたちが勝手に決めるなら、私だって勝手に決めます!!」
「…………」
「さ、佐助さんがどんなに私を置いていこうとしたって、私は佐助さんに従いて行くんですから!!」
自分を見る名前の瞳が、今にも泣きそうな目をしている。彼女はそれを必死に堪えているようだった。普段は感情を露骨に表したりしない名前の意外な態度に暫く呆然としていた佐助だが、名前の必死な姿に彼女の覚悟を感じ取った。
「……はあ、これはこれは」
佐助は如何したものかとため息を吐くと、彼女の方を振り返る。
「こりゃ、参ったなあ……」
「……私も、連れていってください」
「強情なところは、旦那に似ちまったのかねえ……」
「……お願いします、佐助さん!」
不安げな表情で自分を見る名前に向かって、佐助はフッと笑った。
「旦那やお館様に何て言い訳しようか、今から考えなくっちゃな……」
佐助の呟きに、名前の目が見開かれる。
「佐助さん、今……」
名前が言い終わらないうちに、佐助は名前の膝裏に手を回すと、そのまま彼女を抱え上げてしまう。
「さっ、ささ佐助さん!?一体何を……」
「おっと!そんなに暴れると、間違って落っことしちまうだろ~?」
佐助がニッコリ笑いながら名前を抱え直すと、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「佐助さん……」
「ん、何?」
「私たち……何処に向かっているんですか?」
「何処って、俺様と帰るんだよ」
「帰るって……何処にです?」
相変わらず狼狽えた声音で尋ねてくる名前を、佐助は快活に笑い飛ばす。
「野暮な事訊くなあ。アンタが館に帰りたいって言ったんだろ?」
「!」
佐助は自分の言葉に動揺している名前の瞳を、いつになく温かな目で見下ろしていた。
「……ま、例え戦が起こっても、お館様に旦那と俺様がいるんだから、アンタは大船に乗ったつもりでいなよ」
誰もアンタを傷付けさせたりしないさ、と続けた佐助の言葉を聞いて、名前の瞳から涙が零れた。
「ちょっ、泣くなって!俺様が泣かせたみたいじゃん!」
「ごめんなさい……でも、嬉しくてっ……」
泣き笑う名前の表情を見て、佐助は苦笑しながらため息を吐く。それは名前に対する呆れからではなく、どこか嬉しさや喜びに近いものを含んでいた。
「全く、これが惚れた弱みってヤツなのかねえ……」
名前に出逢うまでは、泣いたり笑ったり怒ったりと喜怒哀楽の激しい女という存在は、内心面倒臭いものだと思っていた。
そんな自分が名前に出逢って、彼女のころころと変わる表情を見ていると、何だか自分まで名前と同じような気持ちになってしまう。
忍びという無慈悲な職業柄と自分の何処か冷めている性格からして、こんな気持ちになることは今まで無かった。
この気持ちが何なのか、それは最初から心の何処かでとっくに気付いていたかもしれない。
けれど、自分には叶わぬ想いであろう事も理解している。
しかし今、こうして彼女を自分の腕に抱いていると、佐助は「どうか、今だけは」と願わずにはいられなかった。
「佐助さん……何か言いました?」
「いや……何でもない。それより、うっかり落ちないようにしっかり俺様に掴まってろよ?」
「はっ、はい……」
名前は言われた通り佐助の首へ腕を回し、彼にそっと体を添わせる。
触れた身体から伝わる温もりが、冷たい夜の世界の中で、お互いを安堵させていく。
闇の中、月影だけが二人の姿と、その帰路を照らしていた。
―――――
(無数に蠢く戦の闇から、君を守る)
名前は幸村の世話役なので、行く行くは身分の関係で幸村の正室にはならなくても、側室になるんだろうと思っている佐助。それでも彼女を諦められない佐助。