赤イ海ノ記憶1

「前から思っていたけれど、君はどこか彼女に似ている」

三上先生はふと独言のようにそう言った。
三上先生の言う「彼女」が誰を指しているのか、私には何となく察しがついたけど、詳しくは知らない。知りたいと言う気持ちがあるのも否めないけれど、それでも今まで、先生の言う「彼女」について深く追及することはしなかった。

「彼女って、よく先生の夢に出てくる少女のことですか?」

テーブルに置いたカップに紅茶を注ぎながら、私は先生に尋ねる。

「ああ。そうだよ」

やっぱりそうだった。三上先生は幼い頃に住んでいた土地で起こった事件に巻き込まれたことがきっかけで、殆どの視力を失ったと聞いている。その事件は当時の新聞記事にも取り上げられたそうだが、先生はそのことを余り話したがらない。内容を話したくない程凄惨な事件に巻き込まれたのかと私は思ったが、先生は事件当時、自分が何処で何をしていたのかさえ思い出せないと言っている。
人は精神的に過度なショックを受けると、記憶を失うことがある。それは一時的なものもあれば、そのまま一生思い出せない人もいる。失う記憶の程度も様々で、ショックを受けたときのことだけでなく、自分が誰なのかさえ分からなくなる人もいる。

三上先生の場合もそういうケースに当て嵌まるのかもしれないと思った私は、先生を刺激しないよう、これまで事件の話は避けるようにしていた。
三上先生は一種の記憶喪失になっているようだが、最近先生は夢に同じ少女が現れるのだと言うようになった。記憶の一部を失って猶ふと意識に蘇るその少女は、きっと先生にとって大切な存在だったのだろう。
三上先生は少女のことを思い出してはこうして話し始めることが何度かあったが、それでも私に似ているとまでは言わなかった。

「その少女と、私の何が似ているんです?」

私が紅茶を差し出すと三上先生はありがとうと言って、どこか遠くを見るような目をした。

「何と言ったら良いのだろう。儚くも心惹かれる雰囲気、とでも言うのかな……」
「……先生から見ると、私はそういう風に見えるんですか?」
「……うん、そうだね。勿論、私は良い意味で言っているんだよ」

三上先生はそう言って私を見ると屈託なく微笑む。先生は時々、聞いているこちらが驚くほど歯の浮くようなことを言う。流石は今を時めく現代小説家と言いたいところだが、まるで台詞のように自分のことを褒められたのでは、言われている私の方がやけに恥ずかしくなってくる。お世辞が過ぎますよと私が言うと、先生は微笑したまま、カップに手を伸ばし紅茶を一口啜った。

「お世辞なんかじゃないよ。私は初めて名前と会って話をしたときから、ずっとそう思っていた」

三上先生はそう言ってカップをソーサーの上に戻す。思ったことをさらりと告げる先生のことを、失礼だけど最初は天然か人たらしなのではと私は思っていたが、どうやらそうでもないようだった。
以前三上先生が文芸誌のインタビューで『人の心の繊細な感情を表現するには、先ず自分が日常で綺麗だとか素晴らしいと思ったことを素直に表現できるよう心掛けている』と答えていたことがある。確かに先生は人の心の底にある何かをすっと見抜くような文章を書く。
三上先生の処女作であり塵芥賞を受賞した「海境」という小説を初めて読んだとき、私はその不思議で美しい世界観に瞬く間に引き込まれ、先生の想像力の豊かさに魅了された。
読後、今まで感じたことのない高揚感と感動に包まれながら私が思ったのは、この作品は三上先生そのものだということだった。飾ることなく有るがまま、想ったことを書き連ねている先生の小説は、先生の性格がそのまま現れていた。そして私は三上先生は天然とか人たらしとかでなく、ただ素直で純粋なだけなのだと気付いた。

「……何だか、先生は不思議な人ですね」
「不思議?私が?」
「はい。夢に同じ人が何度も現れるなんて、珍しいことですよ」
「そうなのかな……」

三上先生は首を傾げていたが、次の瞬間には何かに気付いたようにふっと笑った。

「名前。君は私に何か言いたいことがあるんじゃないか?」
「どうしてそんなことを?」
「何か、話し方がいつもと違う」

先生は目がよく見えない分、相手の表情よりも言葉遣いや声色で相手の心境を汲み取っているようで、だからこそ相手の僅かな態度の変化も見逃さなかった。今、三上先生は弱視用の眼鏡を掛けているけれど、それは眼鏡を掛けていようといまいと変わらないようだった。

「君は何かに悩んでいるとき、声が少し低くなる」
「……勝手に私を分析しないでくださいよ」

三上先生は私の言葉を聞いているのかいないのか、何か考えごとをするような目をしている。

「……そうだな。名前が思っていることを私が当ててみよう」
「べ、別にそんなことしなくて良いですよ!」
「でも、私は気になるんだよ。なら、君がその理由を教えてくれるのかな?」

言われてみれば、私は三上先生にいつもより淡々とした話し方をしていたかも知れない。私の返事を待つ先生は何だか面白そうな目をして私を見ていた。その目は物語の結末を聞きたがる子供のような純粋な眼差しで、悪意がないからこそ却って厄介だった。

「……分かりました。好きなだけ予想でも何でもしてくださいよ」

三上先生の純粋さと好奇心の強さには敵わない。私がそう言い捨てると、三上先生はすぐに予想を始めたようだった。

「うん、そうだな……」

ふと私が先生の方を見ると、子供のように無垢な光を帯びていた目は小説の文章を推敲するときのように深遠な、鋭い光に変わっていて、不覚にもその眼差しにときめいてしまう。

「やっぱり、私の夢に出てくる少女のことが気になっているんじゃないか?」
「……気になっている?」
「うん……最近君によく話しているのはそのことばかりだったし……興味があるのかなと思って」
「興味、というより……」
「もしかして嫉妬?」
「嫉妬だなんて、そんな……」

嫉妬というより、私が三上先生から少女の話を耳にする度に感じるのは不安感だった。
それは三上先生には言っていないが、こうして三上先生と親しくなってから何故か私も同じような夢を見るようになっていたから。

先生が赤い海の前に立っていて、そのまま海の中へ入っていくという夢で、夢の中の私はただ先生の背中を見詰めることしかできず、「先生!」と私が叫んでも、先生には聞こえていないかのように、先生はどんどん海の中へ身を沈めていく。やがて先生の体が頭の先まで海水に浸かりその姿が見えなくなると、何処からか「脩……」と先生の名を呼ぶ女性の声が聞こえ、そこでいつも私は目が覚める。

私はその夢の影響か、夢で三上先生の名を呼ぶその声は、先生の記憶の中の少女のものではないかと思うようになっていた。

「嫉妬じゃないのか……残念だな」
「残念?」
「うん……私は、名前のことが好きだから」
「!」

唐突な三上先生の言葉に、私は自分の耳を疑った。

「先生?いきなりどうしたんですか?」
「突然こんなことを言ってすまない。だけど、どうしても伝えておきたかった」

からかわれているのかと思って私は三上先生の顔を見たが、その表情は真剣だった。

「……えっと、お気持ちは嬉しいです。でも……それはさっき先生自身が仰ったように、先生が私の中にその少女の面影を見るからではないのですか?」

つまり三上先生は、私を通して想い出の少女を見ているだけで、私を好いているのではないということ。

「うん……たしかにそういう面で君に惹かれている部分もあるのかも知れない」
「…………」

曖昧な三上先生の言葉に燻るような感情を覚えるが、先生は私を傷付けないよう言葉を選びながら話していることが窺えて、複雑な気分で胸が苦しくなってくる。
こんな気持ちになるのは三上先生だからだ。惚れた弱み、とでも言うのだろうか。

「だけど、その気持ちだけが全てではないよ」

三上先生はそう言って言葉を続ける。

「今まで私は他人と一線を置くような生き方をしてきた。それはもしかしたら、無意識に記憶の中の少女を忘れないためにしてきたことなのかも知れない。でも名前に出会って一緒に過ごす内に、私は初めて名前となら新しい思い出が生まれても良いと思えた……それで少女の記憶を失うことになったとしても」

そう話す間、三上先生は変わらず真剣な眼差しで私を見ていた。

「……先生にとってその少女は生きる希望なんですよね?それほど大切な人の記憶、忘れる筈がありませんよ」
「名前……」

私の言葉を聞いた三上先生の瞳に陰りが差す。

「ありがとう……でも、私は忘れたいのかもしれない」
「……忘れたい?」

三上先生は静かに相槌を打つと、訥々と話し始める。

「苦しいんだ……少女のことを思い出すと。とても寂しくなる。まるで、置いて行かれたような気持ちになるんだ……」

そう言うと三上先生は、縋るように私の手を掴んだ。

「でも、名前は違う。こうして私の側にいて、私を見てくれている」

その眼差しにどれだけ助けられたことだろうと三上先生は私に言った。突然先生に手を掴まれたことで一気に心拍数が上がり、私は気持ちを落ち着けようと深呼吸した後、添えられていた先生の手からそっと自分の手を引く。

「先生の心を救えるのは、私ではありません」

私の言葉に、三上先生ははっとした顔をする。

「名前?」
「三上先生の心を救えるのは、先生自身だけです」

私の言葉を聞いた三上先生は、私の手を掴んでいた手を離すとそのまま俯く。三上先生の手は震えていた。
普段の三上先生は冷静沈着で絵に描いたような大人の男性なのに、今目の前にいる先生は、まるで暗闇に置いて行かれた幼い子どものように見えて、それがとても哀れに思えた。

そんな三上先生を見ていられなくなった私は、今度は自分から先生の手を掴んだ。

「先生、その少女を題材にした小説を書きませんか?」
「……小説?」
「はい。少女の記憶を失くしてしまいそうで怖い気持ち、忘れてしまいたいと思う気持ち、どちらにしても小説として先生の想い出をそこに残しておくことで、先生の気持ちが落ち着くのではないですか?」
「…………」

私の提案を聞いた三上先生は少し迷っていたようだが、その手の震えは治まっていた。
三上先生は思い悩むように暫く俯いていたが、やがて私の手を強く掴み返す。

「……分かったよ。書いてみる」

そう言った三上先生の瞳からは、既に不安の陰は消えていた。

「ただ一つ、名前に頼みがある」
「何ですか?」
「私と一緒に小説を創作してほしい。勿論話の構想は私が考える。ただ、私の考えたものに対して名前の意見を聞かせて欲しいんだ」
「そういうことなら、良いですよ」
「……ありがとう、名前」

その日から三上先生との創作活動が始まった。先生と話し合った結果、失われた記憶を捜し求める主人公がやがて少女に巡り会うという構想を軸にして話を進めることが決まる。

こうして大まかな設定は決まったものの、三上先生の記憶に残る少女の想い出を頼りに、話の流れを考えるには長い歳月が掛かった。けれど一度書くと決めた以上、先生は筆を投げることはしなかった。

そして、遂に作品を上梓する頃には既に三年の月日が経っていた。
小説は「人魚の涙」というタイトルで出版された。主人公の少年と少女の淡く切ない恋愛模様を著した今作は特に女性層からの人気が高く、また恋愛小説でありながらどこか神秘的でミステリアスな作風でもあることから、年代を問わず様々な読者からの評判を呼んだ。
元来、その奇抜な筆致で新進気鋭の作家として注目を集めていた三上先生の新作は瞬く間にベストセラーとなり、世間の注目を集めることになった。


top