赤イ海ノ記憶2

以前塵芥賞を受賞したときのように、三上先生は一躍時の人となった。先生は日夜テレビ出演の依頼やインタビューを受け続け、その日々は多忙になっていった。元々お人好しなところがある先生は、バラエティ番組の出演依頼なども引き受けていた。そういう番組が先生に求めるのは話題性であって、先生の書いた小説では無い。けれど、先生はそういった仕事の依頼も全て引き受けてしまう。
案の定先生は騒がしいのは苦手なので、賑やかな撮影が終わるといつも疲れた顔をしていた。何度か撮影に付き添っていた私は、その度に先生が心配だった。

「だから言ったじゃないですか。先生みたいな人にはこういうお仕事、絶対気疲れするって」

私の言葉を聞いた三上先生は苦笑する。

「……良いんだ。騒がしい所にいれば、少し気が紛れるからね」
「……?」

意味深な三上先生の言葉に私が何か問おうとするより先に、先生は私の手を引いた。

「それよりもう時間も遅い。今からどこかに夕飯を食べに行こう」

仕事が一段落してほっとしたのか、三上先生はいつものように微笑んでいた。

その後も三上先生は普段と変わらない様子だった。最近は小説という形で少女の記憶を残すことが出来たためか、少女について話すことも減っていた。以前は苦しそうだった先生のことを思えば、最近は穏やかな表情をしていることが多く、私は安心していた。

―――――

「人魚の涙」の一大ブームが落ち着いた頃、ある日、突然私の家に三上先生から手紙が来る。
先生が手紙だなんて珍しいと思いながら封を開けて手紙を開くと、そこには手書きの文章が書かれていた。

×××××

名前へ

突然手紙で伝えることになって申し訳ない。
私は暫く遠出をすることにした。
私は、やはり記憶の奥底にいる想い出の少女を捜しに行こうと思う。
名前を一緒に連れて行こうか迷ったけれど、心配性な君のことだから、この話をすれば引き止められるだろうと思い、こうして手紙で伝える形になってしまった。

何故小説まで書いておいて、突然私がこうするのか君は疑問に思っているだろう。
だが、私は小説を書いても、執筆以外の仕事をしていても、心の底に眠っていた少女への憧憬が抑え切れなくなっていた。
私はこれから、幼い頃過ごした故郷へ向かおうと思っている。そこに、何かある気がしてならないんだ。

こんな勝手なことはこれが最初で最後にする。だから、名前にも理解してもらえたらと思うけれど、流石にそれは勝手だと分かっている。
だから、君はこのまま自分勝手な私を忘れてくれても構わない。

一週間で帰宅する予定でいる。家に帰ったら、名前に連絡する。迷惑だったら、そのまま無視してくれれば良い。

×××××

手紙を読み終えた私は、静かにそれを畳んで目を閉じた。
三上先生の行動に、不思議と驚きは感じなかった。心の何処かでは、何だかこうなることが分かっていたような気がする。

それに、手紙が手書きで書かれているというところに、三上先生の思いの強さが感じられた。
三上先生は普段文章を書くときはワープロしか使わない。弱視の先生にとってはタイピングする方が文章を書きやすいからだ。
そういうところからも先生の気持ちの度合いが推し量られて、私にはもう何も考えられることはなかった。
それにあれこれ考えても、もう先生は旅立ってしまったのだ。今の私に出来ることは、先生が帰ってくるのを待つことだけ。

そのとき、テーブルに置いてあった携帯電話の着信音が鳴り響く。慌てて電話を取ると、それは三上先生からの着信だった。

「三上先生?」
「……名前」

電話越しに聞こえた三上先生の声にほっとする。電話越しに響く先生の声の後に潮騒が聞こえた。海の側にいるのだろうか。

「先生、今どこにいるんです?」
「……それを教えたら、名前は私を連れ戻そうとするだろう?」
「……そんなことしませんよ。先生はやると決めたら止めても無駄なんですから」
「……手紙は読んだ?」
「はい。先生の気持ちは分かりました。でも、私はやっぱり心配です」
「名前……私はここ数年、君に頼ってばかりだった。これだけは、自分でやらないといけないと思ったんだ」
「せめて、ツカサは連れて行っていますよね?」
「ああ。流石に置いて出歩けるほどの距離ではないからね」
「……三上先生、帰って来てくださいね。必ず」

三上先生はそこで言葉を切る。

「……君はやっぱり優しいね。名前……私は、やはり君に甘えてばかりだ」
「先生?」
「ありがとう。また、連絡する」
「はい。待ってますからね」

私はそこで電話を切った。
私は三上先生の言葉を信じて、先生が帰って来るのを待った。

一日、二日、三日……そして一週間。

だが、三上先生は帰って来なかった。手紙が来た日以来、先生からの連絡も一切無い。私から先生に電話をしても繋がらず、何だか嫌な予感がした。
一体三上先生は何処に行ってしまったのか。捜索願い出した方が良いだろうかなどと不安に駆られる日々を過ごしていたある日、ふとテレビに映るニュースが目に留まった。それは、夜見島という島の近くで漁船が波に呑まれ転覆し、運転手と乗客を含め六人全員が行方不明という事件だった。

『行方不明として捜索されているのは漁船船長の男性と乗客の一樹守さん、三上脩さん、木船郁子さん、喜代田章子さん、阿部倉司さん――』

テレビに映された漁船の乗客名簿を見た瞬間、私は頭の中が真っ白になった。
三上脩。そこには三上先生の名がはっきりとテロップで映されていた。

私の動揺を余所に、ニュースキャスター達は報道を続ける。

『乗客の中に三上脩さんという方がいらっしゃいますが、この方は作家の三上脩さんで間違いないのでしょうか?』
『取材記者の情報によりますと、どうやらそのようです。そもそも三上さんが船を出すことを依頼されたそうで、それを地元の漁師の方が目撃していたことも明らかになっています』
『三上さんを乗せたこの漁船は何処へ向かっていたのでしょうか?』
『漁港近くにある夜見島という島に向かっていたようですが、その島の近くは天候が荒れやすく、普段は地元の漁師の方々も近付かないようです』
『そのような島にどんな目的で行こうとしていたのか、理由は分かっているのでしょうか?』
『詳しい事情は現在分かっていませんが、三上さんは幼い頃に島で生活されていたと文芸誌のインタビューでお答えになっています。恐らく、その島が夜見島なのではないかという情報も寄せられています』

「……三上先生」

私は急いで外着に着替えると、必要最低限の物を思い付く限り旅行用鞄に詰め込んで家から飛び出した。
三上先生を捜しに行かなければ。それしか考えられなかった。
先生は私にとって誰よりも大切な人だ。そんな先生が行方不明になっているのを、黙って見ていられる訳が無い。

私はすぐに新幹線のチケットを買って夜見島近くにある県へ向かった。そこから夜見島へ出る船を探したが、フェリー等は出ておらず、近辺の漁師に船を出してもらえないか頼んだが、誰も聞き入れてはくれなかった。それもそうだろう、報道によれば島の近くは天候が荒れやすく、それに加えて転覆事故が発生した直後なのだから。

だが、漁師の方々が船を出したがらない理由はどうやら他にもあるようだった。
私が夜見島への出航を頼んだとき、ある漁師の男性は首を横に振った後、こう尋ねてきた。

「そう言えば、この間もあの島に行きたがる連中が居たなあ……お前さん、この間夜見島へ向かっていた船が転覆した事故を知らないのかい?」
「知っています。ニュースで見ました」
「なら、止めとけ止めとけ。最近はもの好きな連中が増えたもんだ。あんな曰く付きの島に行きたがるとはね」
「曰く付き?」
「ああ……この辺の漁師も、誰も近付きたがらねえ。昔は人が住んでいたんだがな……あるとき島民が人っ子一人いなくなったんだ」
「突然居なくなったんですか?」
「ああ。当時は怪事件として随分騒がれたもんだ。島民がいなくなった理由は未だに分かっていないし、あの島に近付こうとすると、何故か海が荒れて船が波に呑まれる……だから、この間転覆した羽生丸の漁師にも止めとけって言ったのに、どうやら大金を積まれたらしくてな。誰だっけな、最近はテレビにも出ている作家の……」
「三上脩ですか?」
「ああ、そうそう。その人が大金を払ってどうしても乗せてくれって頼んだみたいでね。他にも同乗した人間が居たみたいだが」
「そうだったんですか……」
「あんたも命が惜しかったら、あの島へ渡ろうとするのは止めておいた方が良い」

漁師の男性はそう言うと自分の仕事に戻って行った。当時の事情を話してくれたことに礼を言い、日も暮れて来たので私は仕方なく今日の出航は諦めて、港の近辺で宿を取ることにした。
この港の近辺には漁師を生業とする人が多く住んでいるようで、宿泊所のご主人も漁業と宿泊所を兼業している人だった。
私が見掛けない顔のためか、もしかして先日の転覆事故の関係者かとご主人に尋ねられた私は素直にそうだと答える。それを聞いたご主人に気の毒に思われたのか、私は手厚く持て成された。ご主人のご厚意で用意してもらった夕飯を済ませて風呂に入ると、心身の緊張が解れて今までの疲れがどっと押し寄せてきた。

夜になると豪雨が降り始め、強風が部屋の雨戸をガタガタと打ち鳴らした。風呂から上がった私は髪を乾かすのもそこそこに、タオルで軽く水気を取るとすぐに敷いておいた布団に入った。
雨混じりの強風が窓に叩き付ける音が布団の中に居ても聞こえてくるが、すっかり疲労していた私はその音に苛まれることも無く、すぐに睡魔に落ちていった。



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