「うっ……ゴホッ、ゴホッ……!!」
突然来た激しい発作に、文書を認めていた僕は筆を落とし、その場に蹲った。
「!、半兵衛さん!!」
僕のすぐ側で読書していた名前が駆け寄って来る足音が聞こえた。
「半兵衛さん、大丈夫ですか!?今医者を呼んで来ますから!!」
僕の背を擦りながら言った名前が駆け出そうとした時、僕は彼女の腕を掴んだ。
「……名前、大丈夫だ。これくらい、問題ないさ」
すぐに深呼吸を繰り返して、いくらか整ってきた呼吸に自分でも安心感を覚えながら、僕は少し無理のある平静さを取り繕った。名前は心配そうな顔をして、それでも一応診てもらった方が良いと言って僕の制止も聞かずに医者を呼びに行ってしまった。
「……………」
一人置き去りにされた僕は、ふとさっきまで書いていた仕事の書類に目を遣る。落とした筆からは墨が飛び散っており、見事に書面を汚していた。
「ああ……これはまた、書き直しか……」
失敗したそれを見ながら少しだけ咳を零す。
何故か苦笑のような笑いが込み上げて、それから溜息を吐いていた。
「……前回の診療の時よりも、容態は芳しくありませんな」
「…………」
ああ、だから嫌だったのだ。
医者に言われなくても、自分の体の事なのだからそんな事は百も承知だ。それでも専門家に改めてそう告げられると、認めたくはないが僕の恐怖心―『死』へ近付いている―が少しずつ胸の内で大きくなっていくのが分かった。
「少し、療養されたらどうです」
「僕は忙しいんだ。休んでいる暇など無い」
「では、当分は仕事の量を減らされては如何ですか。名前殿から聞きましたが、貴方はその体で夜遅くまで碌に休まず仕事をされているようですね」
「……僕には時間が無いんだ。この病に罹ってからは一秒だって惜しいのだよ」
こうして貴方と話している時間も仕事がしたいんだと言うと、医者の顔付きが厳しくなった。
「医者として、病人の貴方にこれ以上仕事をさせるわけには参りません」
続けて医師は言う。
「老婆心ながら、私も人の命を相手にする職業柄、御意見させて頂きます。斯様な無理をしてまで貴方が秀吉様に尽くして、これを知った秀吉様が喜ばれるとお思いなのですか?」
「……………」
何とも痛いところを突いてくれる医者だ、と僕は思った。
「……分かった。そこまで言うのなら、僕は少し休ませてもらうことにするよ」
不満こそあったものの、これ以上反論すればこの医者は僕を布団に縛り付けかねない様子だったのと、彼の言う通り秀吉から心配を掛けられるのは嫌なので、仕方無く僕は療養の案を受け容れることにした。
「半兵衛さん、調子はどうですか?」
縁側で特に意味も無く庭を見詰めていると、廊下の向こう側から名前が声を掛けてきた。そうして彼女は何故か嬉しそうな顔をして僕の隣に座った。
どうもこうもないさ、と僕は皮肉を込めて呟いた。
「君が医者を呼んだりするから、おかげで僕は仕事が出来なくなったじゃないか。全く退屈で仕方が無いよ」
僕の返答を聞いた名前は何故かくすりと笑った。その笑みが癇に障った僕は、思わず溜息を吐いた。
「何が可笑しいんだい」
「気に障っていたらすみません。でも、半兵衛さんの口から「退屈だ」なんて言葉を聞く日が来るとは思いませんでしたから」
誰がそういう状況に僕を追い込んだ?紛れも無く君だろう?
内心呆れて何も言えなかった僕は、「ふうん、そう」と適当な返事だけをして置く。
それから暫く彼女も僕も何も言わなかったので、長い沈黙が続いた。
「あ、」
声を発したのは名前だった。何かと思って見れば、彼女は庭先に目を向けている。彼女の視線を追って庭に目を遣ると、庭先の花壇の側をひらひらと一匹の蝶が舞っていた。
「半兵衛さん、あの蝶」
「蝶がどうかしたのかい」
投遣りな返事をする僕に、構わず彼女は言う。
「翅が青いですよ。ほら、見えましたか?」
そう言って嬉しそうにしている名前の横顔を見ていると、何故だろうか。不思議な温かい何かを感じた僕は、それとなくその蝶を目で追った。
「……ああ、そうだね。確かに青い」
そういえば、今まで蝶をそんな目で見たことがあっただろうかと僕は自問した。今の今まで蝶の羽が赤だろうと青だろうと、忙しい僕にはどうでも良いことだった。
「私、何処かで聞いたことがあるんです。青い翅を持つ蝶は幸福を運んでくるんだって」
「……へえ」
そんな迷信じみた話を語り掛けて来る名前を、僕は純粋で残酷だと思った。
そして思った。自分が病の身でなければ、こんな気持ちを持つこともなかったのだろうかと。
そんな思考を振り払うように、吐き捨てるように僕は嗤った。
「君はその話を信じているようだけれど、僕には信じられないよ」、と。
何故、と言いかけた名前の言葉を、僕は遮った。
「蝶が幸福を運んでくれるんだったら……何故僕の病は治らないんだ?」
そんな僕の問いに、彼女は切なそうな表情を浮かべて黙ってしまった。
分かっていて訊いた。自分がどれだけ意地悪で幼稚で、的外れな質問をしているか。そして彼女が僕に何を伝えたいのかも。
しかし彼女の言葉は、僕を励ましているようで苦しめているに過ぎない。偽善だ。
苦しめばいいと思った。悲しめばいいと思った。彼女も僕と同じように。
そこまで考えて、僕は今更のように、自分の心の闇を改めて認識せずにはいられなかった。
「……私が言いたかったのは、そんな事じゃなかったんです」
名前は小さな声でそう言った。僕は黙って何も言わずにいた。
「あの蝶は、幸福を与えてくれています……少なくとも、私にとっては」
続けて彼女は言う。
「だって半兵衛さんは今、私とこうして一緒に居てくれるじゃないですか」
僕は黙ったままで何も言わなかった。否、何も言えなかったのかも知れない。
「半兵衛さんは病気になってから仕事の事ばかりで、私だけじゃなく秀吉さんとまで余り話さなくなりました。秀吉さんだってそれは感付いていたようです。でも秀吉さんは、あれが半兵衛の望みならば何も言える事は無いって」
僕には時間がない。だから必死なんだ。一刻一秒でも惜しい。
それは今この時だって変わらない。
けれど。
僕はそうして知らぬ間に、秀吉や名前に気を遣わせていたのだろうか。
「自分勝手な解釈だと思っています。でも、それでも……」
黙ってくれ、と僕は静かに彼女の言葉を遮った。
そうして僕は唯、涙を堪えるように震える名前を見ていた。
僕の、感情を抑えた、それでいて強い視線に気付いた彼女は、恐る恐るというように、此方を見る。
静かに視線が重なり合った時。
「!、」
名前の腕を引いてその体を引き寄せると、唇を塞いだ。
唇が離れた直後、僕の吐息に肩を強張らせた彼女が愛しかった。
「……悪かった」
抱き締めた名前に囁く。
「どうも病に罹ってからというものの……僕は自分の周りがよく見えなくなってきているようだ」
軍師たるものこれではいけないね、と冗談交じりに言って、僕は可笑しくもないのに笑った。
間近にある名前の揺れる瞳に、寂寞を湛えた僕の顔が映っている。
僕は彼女から腕を離すと、呆然としている彼女を後に、胸の内の暗く、黒い蟠りが燻るのを感じながら自室へ引き取った。
―――――
(耐えられない。だから、愛が怖い)
(僕が君を、君が僕を)
(喪うその瞬間が)