二つの悔恨2

「けれど私、彼を守れなかった。豊臣の将である私は、愛する人一人守れなかった。そんな自分がもの凄く不甲斐なく思えてきて……私、何の為に戦っているのか分からなくなった」
「……その男を一時でも忘れ、秀吉様の為に再び刀を取ることはできないのか?」
「そうしたい気持ちはある……でも刀を持つと、あの人のことばかり思い出してしまうのよ、あの人の最期ばかり……」

重い、沈黙が流れた。

すると、名前が夜の闇に浮かぶ桜に向けて手を翳した。

「私も……この桜のように散っていけたら良いのに……あの人のところへ……」

そんな名前の姿を見ていると不安な気持ちに駆られた。今にも桜吹雪に包まれて、名前がどこかへ消えてしまいそうな気がした。

私は咄嗟に桜に手を伸ばす名前の手を引き止めるよう掴んだ。

「おい、妙なことを考えるな……」

私が切羽詰まった表情をしていたのか、名前はふと我に返ったようになり、穏やかに微笑んだ。

「ありがとう。三成」

何か悪い気配を感じた私は、夜も更けたので帰るぞとそのまま名前の手を引いた。
この手を放したくない。

しかし、彼女の手はいとも容易く私の手を摺り抜け、するりと解けてしまった。

「……ごめん、三成。私、もう少しここに居たい」

何を言っていると叱咤しようとしたが、その時の名前の表情が余りにも切実だったので、私は何も言えなくなった。

「……好きにしろ」

私は名前拳を握り締めて、踵を返した。

これが、私と名前の最後の会話であるとも、私だけは知らずに。

―――――

「三成様!!」

翌朝、佐和山に常駐させていた左近が私の部屋の襖を思い切り開けて現れた。

「何だ左近。朝から騒がしいぞ」

人の部屋に入る時は断りを入れてからにしろと言おうとしたが、その言葉は左近の表情を見た瞬間に私の頭から掻き消された。

「……左近、どうした?……何故泣いている?」

私の問いに答えることなく左近は私に詰め寄るように近付くと、私の正面に座り両肩を掴んできた。

「……名前様が、」

左近の言葉、表情を見て、嫌な予感が走った。

「……名前が、どうした」

聞きたくない。その先を。
心ではそう思っているのに、私の口は自然とそう尋ねていた。

「……名前様が、お亡くなりになりました……っ」

そう言って左近は俯き嗚咽を漏らす。左近の瞳からぼろぼろと流れ落ちる涙が畳に染みをつくる。

……死んだ。……名前が?

私は左近の言葉を何度も頭の中で反芻した。しかし、実感が湧かない。
ちくしょう、と悔しそうに言う左近の言葉が遠く、霞んで聞こえる。
私の肩を掴む左近の指の爪が深く肉に喰い込むことさえ、痛いと思わなかった。

「……左近……何を言っている?…名前が死んだ、だと?」

左近は涙を零しながら無言で頷く。

「……自害、されたそう、です……桜の木の下に倒れていたところを、通り掛かった兵士が見付けたそうで……」

自害。

その言葉で私は一瞬、無になった。
全てが停止した。

私は、左近の言葉に対して何も言うことができなかった。
嗚咽を漏らす左近と、空白になった私。

動と静。そしてそこから生まれる異常な狂気が私の部屋に満ちた。
その狂気は、無になっていた私の心にいとも容易く滑り込んでくる。
無が狂気へと変貌すると、私の心の底から沸々と得も知れぬ感情が首を擡げた。
それは怒りにも似た感情だった。

私は左近の手を肩から退けると部屋を後にし、直ぐに名前の部屋へ向かった。
最初はもやもやと漠然とした気持ちのまま歩いていたが、次第に私の足は速まった。

―――――

名前の部屋の前に着くと、躊躇うことなく直ぐに襖を開けた。
名前の部屋には既に名前の訃報を聞いて大坂から駆け付けてくださったのか秀吉様と半兵衛様が居、その向こうに布団が敷かれていた。
襖の開いた音で私の方を振り返った秀吉様がいつになく悲しげな表情をされているのを見て、私の胸に絶望感が芽生えた。

「ひ、秀吉様……」

恐る恐る布団の枕元に座っている秀吉様の側へ近寄ると秀吉様は体をずらし、私に布団が見えるよう空間を作ってくださった。秀吉様の隣に立つと、布団の上に顔に白い布を被せられた人が横たわっていた。顔の上にある布を態々取らずとも、それが誰であるかは明白であった。

「…………」

私はその場に座り込み、その顔の上にある白い布を取った。
そこには、眠ったような名前の、安らかな顔があるだけだった。

「名前……」

だが、呼び掛けてみても、揺り起こそうとしても、名前は目を覚まさない。

「おい……何故起きない?……目を覚ませ、名前……」

そこで、名前を起こそうとする私を半兵衛様が押さえた。

「三成君……現実を受け容れたくない気持ちは、僕も同じだ」

半兵衛様は悲痛な面持ちで私の方を見ていた。

「あれほど優秀だった名前君がこんな形で最期を迎えてしまったのは、僕も本当に辛い。直ぐにとは言わない……だが、遺された僕達は……この現実を、受け容れなければならない」

この現実。つまり彼女の、名前の死。

「…………」

何も、言葉が出なかった。
何も、考えられなかった。
何故、何故何故何故。

名前。

呆然とする私を見兼ねて秀吉様と半兵衛様は一度名前の部屋から出るよう促したが、私はそれを断った。戦友を喪った私の悲しみを慮って下さった秀吉様と半兵衛様は、先に部屋を辞された。

残された私は、名前と二人だけになった。
私は布団の内にある名前の手を探り、しっかりと握り締めた。だがその手に最早生気はなく、驚くほど冷たかった。

「名前……」

名を呼べども、もう返事は帰ってこない。そう分かっているのに、呼ばずにはいられない。そうして呼び続けなければ、名前が、名前の全てが、今にも消えてしまう気がした。

「名前、名前……名前、名前、名前……」

名を呼べば呼ぶほどに、視界が滲んでいく。名前が見えなくなっていく。

「……っあああああああああああああ!!」

行き場のない感情が残酷な叫びとなり、悲愴に谺した。
私は名前の体に縋り泣き伏すことしか出来ない己を呪った。
名前がそこまで思い詰めていたことすら知らずに過ごしていた己の唾棄すべき日々をひたすら悔いた。

―――――

悲劇は、容赦なく私を襲った。
名前を喪って数か月後、家康の離反により私は秀吉様と半兵衛様をも喪った。

私が、何をしたというのか。
これは、名前を支えきれなかった私への罰か。
それとも、名前を支えきれなかった私を、家康は見限ったのか。

かけがえのない人々はこの世から消えた。豊臣の天下の夢も崩れ去った。

もう、何をどうすれば良いか分からなくなった。

私は荒れた。左近と刑部がいなければ、私も三人の後を追っていたかもしれない。
だが、そんな絶望の最中でも気付いたことがある。

私は名前が亡くなっても猶、あれ程悔いておきながら未だ名前の心痛を理解できていない部分があった。自害などするのは、名前の精神が堕弱であったからなのではないかと思っていた節があったのである。
しかし、今の私には名前の心痛がどれほどのものであったか、骨身に沁みて理解することができる。秀吉様と半兵衛様を喪った今の私にならば。

そして、もう一つ気付いたことがあった。

私は見苦しくも、嫉妬していたのだということ。
名前が自分ではない、他の男を見詰めていたことに。

―――――

「三成、どうした。そのように桜に魅入るとは、ぬしらしくもあるまい」

背後から声が聞こえて、そこで我に返った。振り返ると、そこには刑部が居た。

「刑部……どうした、何故此処へ?」
「夕餉の頃を過ぎても三成の姿が見えぬと左近が心配していた故、もしや此処に居るのではと思ったのでな」

私が心配をかけたことを詫びると刑部は首を横に振った。

「ぬしの身に何もなければそれで良い。……して、何故このようなところに居るのだ?」

刑部の問いに、私はただ苦笑することしかできなかった。

「いや……考えごとをしていただけだ」
「考えごと?」
「ああ……少し、昔のことをな」
「……そうか」

刑部は私の考えていることが何となく分かったのか、それ以上は何も言わなかった。

「……今宵の桜も美しいな」

最後に名前と見たあの夜のように。

「三成……ぬしは……」

刑部の声が珍しく私を気遣うような声音をしていたが、私はそれに気付かない振りをして目を閉じ、踵を返した。

「帰るぞ、刑部」
「………ああ」

天守に帰るまで刑部は黙って私の後を従いてくるだけだった。刑部や左近に気を遣わせてしまったことを少し悔いながら私は思う。

案ずるな刑部、左近。私は名前たちの後を追うことはしない。

―――――

数日後、三成は大坂城下に広がる草原に居た。
春の息吹を受けて靡く草原の一角に、二つの墓石が並べられている。
三成はその墓石の前に摘んできた花を手向け、静かに見下ろしていた。
その下には名前と、名前の愛した男が並んで眠っている。

墓石の立つ場所からは一面の桜並木が見える。名前亡き後、こうした形で葬ることがせめてもの弔いになればと三成が秀吉と半兵衛に進言してつくられたものだった。

「名前……」

三成は名前の墓石に、そっと優しく触れる。

「秀吉様も半兵衛様も、そちらに行ってしまわれた……残されたのは、私一人だ……」

願わくば私とて、直ぐにでも名前たちの元へ行ってしまいたい気持ちは少なからずある。
しかし秀吉様の左腕としての責務を放棄して殉死することは、今の私には赦されていない。

「どうか、見守っていてくれ……」

三成は墓石に手を添えたまま静かに頭を垂れ、瞳を閉じた。
暫くそのままで居た三成は、ふと目を開けて名前の横に眠る男の墓石を見た。三成はそちらにも手を触れ、念じるように言った。

「名前を頼んだぞ……私の分まで、大切にしてやってくれ」

最後まで名前の心を救えなかった、私の分まで。

三成は徐に立ち上がり、二つの墓石をもう一度見詰めると、やがて踵を返した。

三成はもう、振り返ることはなかった。

この後、三成は関ヶ原の戦いで家康との決戦の末に殉死するが、そんな運命も知らず今の彼はただ草原の上を闊歩する。
その背には重苦しくも決して捨て去れない過去と、遺志を継いで生きようとする未来が鬩(せめ)ぎ合い、光と闇のように揺らめいていた。

―――――

(彼女は彼の内で永遠に生き続けるだろう)
(たとえ彼の愛が、最早彼女に届くことはなかったとしても)


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