凶王の鬱屈

「……私は、何なのだろうな」

執務中、三成がふと呟いた言葉を聞いた名前は次の戦に向けて同盟国へ送る文書を認めていた手を止めた。

「……三成、どうしたの?」

名前が問いかけると、三成は弾かれたように名前の方を見た。

「……い、いや……何でも無い!!」

三成は直ぐにガバと文机に向かい、休めていた筆を慌てた様子で動かし始める。名前はそんな三成の様子を不思議に思ったが、今は同盟国へ援軍の要請を促す文章を推敲するのに忙しい彼女は、話なら後で訊こうと思い自分の筆を進めた。

(よし……出来たっと)

あれから一刻(二時間)ばかり掛けて、名前は遂に書類を書き終えた。
名前は固まった姿勢を解す為にうーんと伸びをした時に、ふと自分の座っているところから斜め前の場所で未だ書類を書いている三成の方を見た。
三成は机の上の書面をじっと見てはさらさらと文字を書き、の繰り返しを続けて名前の視線にはてんで気付いている様子は無い。

先程のあの謎の呟きは何だったのか尋ねてみようと思っていた名前だが、今三成は仕事に集中しているようなので話し掛けるのは止めておく事にした。
名前は仕事の邪魔にならぬよう静かに立ち上がり、三成にお茶を淹れて来ると断ってから部屋を出た。

―――――

廊下を歩いている途中、名前は先程の三成の言葉を思い出していた。

「私は何なのだろうなって……そう聞こえたような気がするんだけど」

その言葉の意味を理解し兼ね、そして少し心配になった。

「普段は独り言なんか、言わないのに……」

三成の身に何かあったのだろうかと思案しつつ歩いていると、何時の間にか台所に着いていた。
名前は何時もの要領で湯を沸かし、お盆と茶葉、三成と自分の湯呑み二つを用意してお湯が沸騰するのを待った。
その時、誰かが台所へ近付いてくる足音がした。

「あれっ、誰かと思えば名前様じゃないですか」
「左近!」

左近は三成の部下という立場上、彼の同僚である名前とも日頃から親しい間柄だった。
「お疲れさまです」と人懐っこい笑みを浮かべて、左近は名前の方へ歩み寄ってくる。

「どうしたの?台所に来るなんて」

名前が尋ねると、左近はその問いを待ってましたと言わんばかりに名前を見た。

「それが、俺がさっき廊下を歩いていたら半兵衛様と擦れ違いまして。後で僕のところにお茶を持ってきてくれって仰るんで、それで台所に来たんですよ」

俺は半兵衛様じゃ無く三成様の部下なんですけどね、とぼやくように言って左近はちょっと不満げに肩を竦める。

「でもまあ、三成様の上司であるわけだから、延いては俺にとっても上司って事になるんですよね。文句は言えないよなあ」

左近は思案顔をして独り言のように話し出すと、うんうんと一人で頷いて納得していた。
その様子を苦笑しつつ名前は見ていたが、ふと三成の謎の呟きのことを思い出した。

「ねえ、左近」
「え、何ですか?」

突然呼ばれた左近は弾かれたように名前の方を見た。

「あのね、今日三成が変な事を言っていたんだけど……」
「三成様が?……で、変な事って何なんです?」

名前が事の仔細を説明すると、左近は顎に手を添えてまた思案顔になった。

「うーん……三成様が、そんな事を……」
「うん……」
「……抑々、独り言を話す時点で何か普段の三成様じゃない感じっすね」
「そうなの。私もそう思ったんだけど……」

三成は普段無駄な事は喋らない。それは独り言とて例外では無く。
暫くそのまま二人であれこれと予想してはお互いに意見を交わしながらうんうん唸っていたが、その間に湯が沸騰し、左近がはあーと考え疲れたように溜息を吐いた。

「考えてても埒が明かねえ。これはもう、本人に直接話を訊いてみるしかないんじゃないっすか?」
「うん……やっぱりそうだよね。左近、ありがとう」

言って、名前は二人分の湯呑みを盆に載せて渡す。

「え?これ三成様と名前様の分のお茶ですよね?」
「大丈夫だよ、多めにお湯沸かしといたから。これは半兵衛様と左近の分」

相談に乗ってくれたお礼だよと名前が言うと、左近は素直にそれを受け取って礼を言う。後で自分も三成の様子を見に行くと言って彼は台所を後にした。
左近が居なくなった後、名前は直ぐに三成と自分の茶を淹れて部屋へ戻った。

―――――

名前が部屋へ戻ると、三成は相変わらず政務に取り掛かっていた。

「……ねえ、三成」
「ん?何だ」

三成の机に湯呑みを置き様、名前は単刀直入に尋ねる。

「さっき三成、独り言話していたよね」

名前の言葉を聞いて、書面に筆を走らせていた三成の腕が止まる。

「何の事だ……私が独り言だと?」

素知らぬ振りを貫き通すつもりなのか、三成は曖昧な返事をするだけ。
だが名前は粘った。

「三成……何か心配事でもあるの?最近、様子が変だよ」
「私が変?私を侮辱しているつもりか?」
「いや、そうじゃなくてですね……」

相変わらず人の言葉を捻くれた方向に受け取るこの不器用な男と話していると、会話がどんどん別の方向へ逸れていってしまう。
今の場合、三成は敢えてそうしているのかも知れないが。

「フン……人を変人呼ばわりする前に、さっさと自分の仕事を終わらせたらどうだ」

三成は言い捨てると再び書面に筆を走らせる。
三成の執務机の上とその周辺には大量の書類や書状の巻物らが置かれている。それもその筈、彼は奉行と言う立場柄、与えられている仕事は戦に出陣するばかりではない。
しかし責任感の強い彼はそれに一切文句も言わず、仕事の一端をも他人に任せる事が無いのだった。全ては秀吉様の御為と。
だが、そんな何もかも一人で抱え込んでしまう彼だからこそ、こればかりは譲れない。日頃から並々ならぬ三成の仕事熱心な姿を名前は同僚として尊敬しつつも、常に心配していた。今回はそれを問い質す絶好の機会なのである。

「三成」

名を呼ばれた三成が顔を上げると、名前が心配そうに眉を下げている表情が目に入る。
それを見た三成の瞳が一瞬見開かれるが、直ぐ無表情に戻り名前に尋ねる。

「何だその顔は……どうした名前?」

三成は怪訝な表情で名前を窺ったが、先程の彼女の言葉や態度から察してその眼差しが何を伝えたいのか理解した三成は、はあと溜息を吐いて、筆を置いた。
そして名前が持って来てくれた茶を口にすると話し出す。

「私の独り言がそんなに気になるのか?」
「うん」

名前が頷くと、三成は仕方が無いといった風に、徐に口を開いた。

「……あれはな……私はお前に取って何なのだろうなという意味で言ったんだ」
「……お前って……私の事?」

名前の問いに、三成は何となく気不味そうな表情を浮かべながら頷く。

「……最近、お前の事を考え出すと考えが止まらなくなる。お前の好きなものは何だとか、嫌いなものは何だとか、下らない事ばかりだ……お前の事を考えると憂鬱になる。秀吉様や半兵衛様と話しているお前を見ていると、気分が暗くなる……」

滔々と話し始めた三成の言葉を聞いた名前は何時もの彼らしからぬ言葉に自分の耳を疑ったが、今の彼の表情はどんよりという言葉がぴったりな程に翳っていた。その陰鬱で深刻そうな面影を見れば、三成が戯言を話している訳ではない事は名前に十分すぎる程に伝わってきた。

「……私は、何の為に生まれてきたのだろうか。何の為に戦っているのか……この世は何処から始まって、何処へ向かっていくのだろうか……」
「……三成?ちょっと、しっかりしてよ!」

彼の事だから秀吉様に関する事だとか仕事上の問題を抱えて悩んでいたのかと思えば、話題にしてきたのは意外にも自分の事だった。

「私は……私は一体、どうなってしまったんだ……」
「三成!?」

名前の言葉も聞いていないようで、三成は何処か上の空である。今の三成に何を話しても真剣に聞いてくれる様子ではない。

三成は初めに自分の存在価値が分からないという話をしていた。下らないと言いつつ思い浮かべてしまうと言うのは、それだけ本人にとっては気掛かりな事なのだろう。
更に私が秀吉様や半兵衛様と話していると憂鬱になるという。それは私が日頃から三成を如何思っているのか彼は解っていないという事でもある。

だったら私は、三成がどれだけ豊臣に欠かせない人物で、私が三成の事を如何思っているのか正直に伝えれば良い。

名前は三成を気遣うように話し掛け始める。

「三成……」
「…………」
「三成。あなたは豊臣にとっても、私にとってもかけがえのない大切な人だよ」
「……!」

名前の言葉に、三成は弾かれたように顔を上げた。

「今や豊臣の左腕といえば三成を措いて他にはいない。豊臣の剣豪・算術家といえば家臣達は三成の名を挙げるほど……その功績が認められて秀吉様から奉行の職を賜ったのでしょう?」
「ああ……全ては、秀吉様の為だ」
「それに、戦で敵に襲われそうになった時は真っ先に駆け付けてくれるし、普段は重い書類も代わりに持ってくれるし、仕事も何だかんだ言って手伝ってくれるし。優しいよね、三成は」

ニコっと笑う名前を見ると、三成の顔が赤くなっていく。

「なっ……それくらい、同僚であれば別に如何と言う事も無いだろう!」

三成はフンと名前から顔を逸らすも、その顔は赤いままだった。

「ううん。私はすごく嬉しいよ。だって本当に三成が冷たい人だったら、そんな事してくれないと思うもの」

其方を向いてしまった三成の態度に構わず名前は言い切った。

「三成、元気が出るおまじないやってあげる」

名前はスッと三成の前に手を差し出す。

「な、何のつもりだ……」
「おまじない序でに、けじめだよ、けじめ。ほら握手」

差し出された名前の手を躊躇うように見ていた三成だが、名前が早くと急かすと渋々手を伸ばす。

「これからも秀吉様の天下の為に、一緒に頑張ろうね三成」
「あ、ああ……」

ぎゅっと名前と三成の手が握手を交わす。
三成は少し困惑した顔をしていたが、やがて名前の気持ちを感じ取ったのか、フ、と静かに笑った。三成の笑顔を見て、名前は安堵した。

「……私に子供騙しのような真似をするのはお前くらいだ」
「子供騙しだとしても、三成が元気になるならやらないより良いでしょう?」

そう言って名前が握っている手を放そうとした。が、瞬間三成からグッと強く手を握り返される。

「三成?」

名前が三成の方を見ると、彼の目付きは真剣なものに変わっていた。

「名前」
「何?」

三成は真剣な表情のまま名前を見つめている。

「私は、その、お前の事が……」

その時、突然部屋の襖がスパンと開いた。

「三成様ー!名前様から元気が無いって聞いたから様子見に来まし……あれ?」

襖の前に立っていたのは左近だった。三成と名前が文机を挟んで握手を交わしている不思議な光景に、彼は首を傾げる。

「左近、三成少し元気になったみたい」

名前が左近に向かって言う。

「あっ、そうなんすか?いやー良かった!俺も心配したんですよ……って三成様?」

三成は俯いていてその表情が見えないが、ブルブルと総身を震わせている。そして徐に握っていた名前の手を放すと、ユラリと面を上げた。

「……左ああ近おおおおおんんん!!!」

三成は腹の底から雷鳴の如き怒声を上げた。カッと目を見開いて、鬼のような形相をしたまま立ち上がった彼の全身からは殺気が漂っている。

「え!!ちょ、何!?三成様?え?えええええ!!」

三成が唯ならぬ雰囲気を発散させている理由が分からないが、取り敢えず生命の危機を感じた左近はじりじりと二、三歩後退した後、脱兎の如く逃げ出した。

「逃がすものかああああああ!!!」

癇癪と憤怒が入り混じった甲高い声を上げながら、三成は部屋から飛び出して行った左近の後を追った。部屋に一人残された名前は三成が激昂したのか理由も分からず、呆然として二人が消えて行った扉の方を見て首を傾げるばかりだった。

―――――

(左近!!貴様、よくも、よくも……!!)
(ヒイー!!何なんですか!?俺、三成様に恨まれるような事しましたっけ!?)
(私の秘めたる想いを告白する絶好の機会に水を差したな……!!断じて赦さん!!)
(秘めたる想い!?告白!?何の事ですか!?三成様あああ!!)

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