羽生蛇村を歩いていると、向かいの曲がり角から神代淳が現れた。私の姿に気付いた淳もハッとした顔でこちらを見る。
「久しぶりだな名前。しばらく顔を見ていなかったが」
「あ……うん、久しぶり」
淳はスタスタと足早に近づいてくると私の前に立ち止まり、こちらを眺めるように見た。
「……何だかいつもより荷物が多いが、何処へ行っていたんだ?」
そう言いながら、淳は私が背負っている旅行用鞄を凝視している。
「ああ、先週から臨海学校だったの」
「りんかい?何だそれは?」
羽生蛇村には村立中学校までしか学校が無いので私はバスに乗って隣町にある高校に通っているのだが、行事で一週間前から臨海学校があり、今日やっと帰ってくることが出来たのだ。
だから正直、このまま重い鞄を背負って話すのは疲れる。淳のことだから持ってもくれないだろうし。
「えっと……そうだな、簡単に言うと数日間海の側で過ごす学校行事だよ」
私の言葉を聞いた淳は腕組みしながら、ふうんという感じで静かに頷いた。
「楽しかったか?」
「漁師さんの仕事を手伝う行事だったから、遊んだりは出来なかったけどね。勉強にはなったよ」
「そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
すぐに、会話が途切れる。私達は歳が近いこともあって、子どもの頃は時々一緒に遊ぶような仲だった。こういう関係を所謂幼馴染みと言うのだろうが、彼は羽生蛇村の権力者の婿養子で、私は村民の一人に過ぎない。本来ならば敬語を使うべき相手なのだが「今更お前に敬語を使われても歯痒いから止めろ」と当人に言われて以来は普通に接している。
これ以上話すこともないと思った私は、それじゃあと淳の横を通り過ぎようとした。が、擦れ違いざまに腕を掴まれた。
「おい、待て」
「何?」
「いや……その、何だ……お前、しばらく見ないうちに太ったんじゃないか?」
「……はい?」
私は淳に掴まれている腕を振り払う。
「わざわざ人を捕まえて言うこと?相変わらずデリカシー無いこと言うよね」
「でりかし……何だそれ?」
淳は昔から馬鹿だの阿呆だの、人を罵る言葉を平気で使う。何不自由ない生活を送ってきたからか、彼はいつでも高慢的で、そういう風にして人を見下すところがある。否、あるというよりいつもそんな感じだ。
「……ふうん。天下の淳様にも知らない言葉はあるんだね」
私の嫌味を含んだ口調に触発されたように、淳は顔を顰めた。
「なっ……俺が知らないわけないだろ!」
「それじゃあ、どういう意味か解るの?」
「……っ」
淳は一瞬言葉に詰まったが、それを隠すように引き攣った笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな……「完璧すぎて隙がない」みたいな意味だろう?」
淳の答えを聞いた私は鞄のポケットから電子辞書を取り出すと、それで淳の脳天を殴打した。
「痛っ!!おい、いきなり何するんだ!?」
「ハズレだから。馬鹿」
「だからって殴る奴があるか!!」
「ここにいますよ」
揚げ足を取るようにそう言うと淳は私を睥睨するが、私はその視線を無視した。
そもそも久しぶりに出会ったかと思えば、いきなり人の体型のことを言うなんて失礼だ。
荷物も重いのに人を足止めして余計なことを。これはその応酬だ。
仕舞うのも面倒だったので、私はそのまま持っていた電子辞書を淳に押し付けるように渡した。
「それで精々勉強したらどうです?箱入りお坊ちゃん」
「……何だと?俺を馬鹿にしたな!!」
「私はもう帰りますよナルシストさん」
「な、なるしす……って、どういう意味だ?」
「……ああもう、うるさい!それも自分で調べれば良いでしょう!!」
私がそう言うと淳は「ひっ」と情けない声を漏らして、私から離れるように後退る。
それを軽蔑するような目で見た後、私は淳に背を向けて家路を辿った。
「……お、おい!ちょっと待て名前!!」
「話し掛けないで。後、ついて来ないでよね」
立ち去る私を追うことも無く、淳は呆然とその場に佇んでいた。
あれから数日経ったが、あれ以来淳には会っていない。
流石に色々やり過ぎたかと思ったが、それでも淳の発言を思い出すと不快な気分になるのは変わらなかったし、友人のようにそう気安く会える間柄でもないので、最近は疎遠になっている。
今日は平日だが臨海学校の振替休日だった。疲れが溜まっていたのか、昼近くまで眠っていた私は起きてからも外出する気分にならず、自室で何となく過ごしていた。
「名前、ちょっと出てきてくれる?」
そうしている内に部屋の外から母が呼ぶ声がしたので、何だと思いながら部屋を出ると、突然母が私の肩を掴んできた。
「何……?お母さん、何かあったの?」
「……そ、それがね」
明らかに母の様子がおかしい。何かに怯えているような、そんな感じだった。
「家の前に、神代の婿養子様が来てるわよ」
「……え?」
「何だかよく分からないけど、名前に用があるんだって、今玄関の前にいらっしゃるのよ」
……さては辞書で殴ったことを根に持って、復讐にやって来たのか。
「お母さん、大丈夫。きっと何か用事があって来ただけだから」
心配する母をどうにか宥めて、私はサンダルを履いて外に出た。玄関を出て家の門に向かうと、門の脇に淳が立っていた。
私が何か用かと言う前に、突然淳が背中に隠し持っていた何かを私に突き出してきたので、驚いて立ち止まった。
突き出された淳の手には数本の綺麗な花が握られていた。淳はそれを私に押し付けるように渡してくる。
「何、これ?」
「……さっき蛇ノ首谷で摘んできた」
素直に贈物、と言わないところが淳らしい。淳はつんとした表情で顔を背けていたが、それは不機嫌というよりも照れ隠しのように見えた。
私が花を受け取ると、淳はこちらを目だけで見下ろしてくる。
「もうでりかしが無い男だなんて言わせないからな」
「でりかし、じゃないデリカシー」
「発音なんてどうでも良いだろう。伝われば良いんだよ、伝われば」
そう言いながら淳はポケットから何かを取り出す。
「ところで、お前が俺の頭にぶつけてきたこれは一体何だ?」
淳の手の中にあった物は私の電子辞書だった。
「辞書だよ」
「……辞書?これが?」
淳はそう訊きながら、私に電子辞書を渡した。
「うん。って……淳、電子辞書知らないの?」
「辞書と言えば分厚い書物だろう?こんなものが辞書なのか?」
何てことだ。電子辞書を知らないだと。
でも、淳ならありえないことではない。携帯やパソコンに関しても彼は全く無知だったのを私は思い出した。
「じゃあデリカシーの意味は分かったの?」
「調べてみたが、神代の家にある辞書には載っていなかった」
「それは何の辞書?」
「何って、あの家には国語辞書と漢字辞典くらいしか置いていない」
「まあ、そうだろうね……」
あの奥床しい日本屋敷に英和辞書とか置いてあったら、逆にびっくりするわ。
「だからこの間の名前の態度から察したんだよ。デリカシーとやらが無いっていうのは、何か失礼なことを意味するんだろうとな」
「当たってはいるけど……」
「やっぱりそうなのか!」
淳は何故か嬉しそうだった。デリカシーが無いと言われて喜ぶ人なんて、初めて見ましたよ。
「俺の勘は的中していたんじゃないか!」
流石は俺!と言うようなオーラを放っている淳を引いた目で見ていると、淳もそれに気付いて居住まいを正し咳払いをする。
「今度、お前を不機嫌にさせた詫びをしたいと思ってな」
「詫び?」
「あ、ああ……」
夕陽の所為だろうか、淳の顔が何となく赤く見える。
「何処か行きたい場所はないのか?」
「行きたい場所?」
淳は家の決まりで村の外から出ることは出来ないので、村の中ということになる。
「……宮田医院でも良いの?」
「……何で病院に行きたいんだ?」
「最近宮田先生に会ってないから」
「何で宮田なんかに会いたいんだよ?」
「この間風邪気味だったときに診察してもらって良くなったから、そのお礼を言いに行こうと思ってね。というか宮田”なんか”って失礼よ」
「どうでもいいだろう、そんなこと。あいつは神代の遣いだからな。神代の人間からしてみたら下僕みたいなものだよ」
「うわ、あの宮田先生を下僕扱いとか、後で先生に縛かれても知らないから」
「お前……宮田に告げ口する気か?あいつに話したら、お前を神代の座敷牢に監禁してやるからな」
「いきなり物騒なこと言わないでよ。しかも監禁とか、犯罪だし」
「この村では警察も神代のやることには口を出さない。俺からしてみれば居ないも同然だ」
「口を開けば神代、神代って、御家の威光を笠に来て偉そうにしないでよね」
「何が悪い。俺は神代の人間で、あの家の婿養子として選ばれた。このまま行けば俺は次期当主の座を……ってそんなことはどうでもいいんだよ!」
下衆な発言をしながらも、そう話している淳の顔は益々真っ赤になっていく。
淳が私を見下ろすと、彼の長い睫毛が顔に影を落とす。ああ、こうして見ると淳は慎ましく黙ってさえいればそれだけで気品ある美男子なのに……などと私が思っていると、不意に淳が口を開いた。
「あのな、俺は……子供の頃から、お前のことが……」
「……?」
「俺は……名前が……」
「……何?」
「……っ、何でもない!とにかく、行きたい場所を考えておけよ!」
淳は明日電話すると言うと、私に背を向けて走り出す。
夕陽の向こうへ走って行く淳の姿に、前にもこんなことがあった気がすると私は思った。
あれは、そうだ。私が淳から誕生日プレゼントを貰ったとき、お礼を言ったら突然顔を真っ赤にして走り去ってしまったことがあった。多分あのときの淳はお礼を言われて嬉しかったんだろうけど、それを言葉に出来なくて恥ずかしかったのか、突然そういう行動を取ったんだと思う。
淳は相変わらず変わっていない。言いたいことや大切なことをいつも言わず、相手に察して欲しがる人。本当に、昔気質というか、自分勝手な人。
でもそういう淳を嫌いになれない自分も自分だと私は思う。
私の手の中で淳から貰った花が、風に揺れる。
ふと淳の方を見ると、彼の白いシャツが夕陽に染まっている。その広い背中は、私にはどこか懐かしく、幼く見えた。
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(俺の気持ちに気付かないないお前を、それでも愛してる)