後日、研究員の死因は「実験体の観察中による事故死」として、ウェスカーが報告書に詳細をまとめて提出した。詳細といっても予めウェスカーが考えておいた捏造だったが、その報告に意義を唱える者もいなかった。
幹部候補にすら挙げられていない研究員が一人死亡したくらいでは、上層部も他に人手はいくらでもいると考えているし、同僚の研究員達もライバルが消えて寧ろ好都合だとしか考えていない。それがアンブレラ研究施設の常だった。
こうしてウェスカーは、研究員が名前にしたことと同じように研究員を殺害した。だが、報復してもウェスカーは満足する事なく、すぐに名前への処置をどうすべきか考えていた。
何もしなければ名前はこのまま死ぬだけだ。だったら一縷の望みでも、それに賭けるしかない。ウェスカーは以前から頭に留めていた一つの目算を、名前に試してみるしかないと思った。
ウェスカーは研究室に着くと、名前の眠る寝台に近付いた。名前は死人そのもので、その肌は彼女が死装束のように纏った実験体用のワンピースが眩しく見えるほど、蒼黒く変色し始めていた。
ウェスカーは白衣のポケットから注射器を取り出すと、名前の腕を取り、その針を名前に打ち込んだ。
時間は待ってはくれない。今の研究段階では名前の体を腐敗させない為には、生命活動を停止させない為には、こうするしかなかった。
ウェスカーが名前に投与したのは、最近アンブレラで発見された「T」というウィルスだった。感染した生物の代謝を著しく上昇させ、その身体の内部構造を変化させるが、感染者の殆どはウィルスの猛威に耐え切れずに次第に自我を失い、ゾンビとなる。
だがT-ウィルスに適合する遺伝子を持つ者は、感染しても自我を保つことができる。実際にウェスカー自身がそういう体質だった。そして、それは考え方によっては新たな人類としての生を得られることでもあると、ウェスカーは考えていた。
だが、現実はウェスカーの思い通りに行くほど甘くはなかった。
T-ウィルスに適合する遺伝子を持つ人間は少なく、それは名前も例外ではなかった。ウィルスを投与されてから数日後、名前は代謝の急激な変化による為か、狂ったように研究室の中で暴れ、ゾンビ化してしまった。ウェスカーは徘徊や暴走を止めない名前が研究室から抜け出さないよう、応急的に枷を付け、寝台に拘束した。
ウェスカーも簡単に諦めなかった。ウィルスに適合する遺伝子を持たない者でも自我を保ち、ウィルスと共生していける手段はないものか、名前の体に適合するウィルスを発見する為ひたすら研究を続けた。この研究が軌道に乗り成功すれば、いずれ名前の遺伝子がウィルスをうまく制御できるようになるとウェスカーは考えていた。
―――――
過去を顧みながら、ウェスカーは研究室に入る。そうして、名前の拘束されている寝台に近付いた。ウェスカーが真横に立っても名前はただ結束から逃れようと藻掻き続けている。鎖につながれている部分には擦過傷が出来、名前はひどく苦しげに見えた。
ウェスカーは白衣のポケットから注射器を取り出すと、暴れる名前の腕を取り、薬剤を投与した。すると暴れていた名前が見る見る大人しくなり、やがて静かに目を瞑った。ウェスカーは大人しくなった名前の髪を撫でる。
「もう少し……待ってくれ」
ウェスカーはサングラス越しに名前を見下ろす。髪を撫でていた手を滑らせて、そっと名前の頬を撫でた。
血の気の無い冷たさ。だが、柔らかさの残る頬。
その白濁した瞳の奥底にはまだ、生前の記憶がきっと残っている筈だ。
お前は死んでなどいない、名前。
お前は、私が蘇らせてみせる。
ウェスカーが個人的に名前を隔離し、研究を続けていることを知っている数人の研究員は、ウェスカーを異常だと言う。T-ウィルスの使い方を間違えているとか、人助けなんて馬鹿馬鹿しいと言う。そこに同情など微塵もなく、あるのは批判、若しくは嘲笑と侮蔑だった。
だが、勿論ウェスカーとてただの同情心だけで名前を実験体にしている訳ではない。この研究の行く末に名前が蘇る日を思い描いてもいたが、この研究の目的は、新ウィルスを発見するためのものでもあった。それに、名前の死を何とも思わない研究員達に、自分が異常だなどと言われる筋合いもないとウェスカーは考えていた。
それからウェスカーは名前を連れてアンブレラを去った。ウィルス漏洩事件でアークレイ研究所の閉鎖が決まり、ウェスカーはこれを機に名前を自分にしか分からない場所に安置することにした。
研究施設という「檻」を出たウェスカーが見た社会は、人の欲に食い尽された世界のなれの果てだった。ラクーンシティでウィルスを巡って繰り返されてきた陰謀が、ウィルスの魔の手となって罪のない人々にも降り掛かる。残ったのは荒廃した街とゾンビ、屍の山。
しかし、それさえ政府は滅菌作戦と都合良く称し、全てを灰に消し去った。
この世界はどこまで汚れているのか。度重なるバイオハザード。このウィルスに塗れた、腐った世界は変えなければならないとウェスカーは思った。
しかし自分は政治家のように政治で世の中を変えることは出来ない。革命を起こせる程の財力や権力も持ち合わせてはいない。だとすれば、結局は科学――ウィルスの力でしか世界を変える術を持たないのだ。
自分も嘗てはあの悪の巣窟で研究を行っていた。だが、だからこそ自分にしか解らない、出来ないこともあるとウェスカーは思っていた。
「良いだろう、スペンサー……見ていろ。いつか必ず、お前を超えてやる」
こうしてウェスカーは新たな世界を自分の手で創り上げることを心に決めた。
それからウェスカーは世界各国の製薬企業を渡り歩き、ウィルスサンプルを回収しては新ウィルスに関する研究を重ねた。
野望を果たすべく日々多忙を極めていたウェスカーは、定期的に名前の容態を見ることが難しくなっていった。
理想の新時代をいち早く築くには、暫く距離を置く必要があると考えたウェスカーは、已むなく名前を一時的に休眠状態にさせることにしたが、ウェスカーが名前のことを忘れた日は無かった。名前に関するデータは毎日ウェスカーの元に送信されるようにし、容態が急変した場合はすぐに駆け付けられる準備もしていた。
そうして月日は流れ、ウェスカーの思い描いた計画は終盤を迎えていた。
―――――
長い時を経て、遂にウェスカーは新種のウィルス「ウロボロス」を生成することに成功した。
ウロボロスは人間の遺伝子に作用し、適合すれば投与された者の精神や外観を損ねることなく知性、肉体の超強化を及ぼす。その効果は全てウェスカーが求めてきた理想に相応しいものだった。
但しウロボロスは適合者に対しては劇的な変化をもたらすが、不適合であった場合は直ちに暴走を起こし、感染者の肉体を支配する。そして体中から無数の触手を生やした不定形の生物へと変質させてしまう。
ウェスカーはいずれウロボロスを名前にも投与しようと考えていた。そもそもウロボロスは彼女の為に生成したと言っても過言ではない。
ただ、もし名前の肉体がウロボロスと不適合であった場合、彼女を永遠に失うことになるかも知れない。それだけがウェスカーにとって気掛かりだった。
「ウロボロスに選ばれた真に優秀な遺伝子……それこそ進化を授かるに相応しい新時代の遺伝子なのだ」
「その新時代で王にでもなるつもりか、ウェスカー!」
ウェスカーの言葉に答えたのはクリス・レッドフィールドだった。嘗てのウェスカーの部下であり、今まで何度もウェスカーの野望の前に立ち塞がってきた男。
今までウェスカーは自らに投与したウィルスの力を駆使して、クリス達の阻止を掻い潜ってきた。だが、クリスもそう簡単に諦める男ではなかった。
「王か……俺は王になどならない……」
「なら、何の為にバイオテロを続ける!?」
「……復讐の為だ」
「何だと……?」
「俺はバイオテロによって生まれたB.O.W.のデータを得てきただけだ……争いなど、ウィルスの利権に群がる連中が引き起こしたものに過ぎん」
そのとき、ウェスカーの通信機が発信音を鳴らした。ウェスカーが通信機の画面を開くと、名前に関する緊急のデータが送られてきていた。名前の容態に何らかの変化が起きたようだ。
(早くクリス達を消さなければ……)
ウェスカーが通信機を懐に仕舞おうとした、そのとき。ウェスカーに向かって凄まじい轟音と共に何かが迫ってきた。
ウェスカーはそれを反射的に手で受け止める。それはロケットランチャーの弾丸だった。
「……貴様ら!」
ウェスカーは弾丸を弾き返そうとしたが、シェバが素早く弾丸を撃ち抜いた為に暴発し、その勢いでウェスカーの体が吹っ飛ばされる。
倒れ込んだウェスカーの元にすかさずクリスが駆け寄る。その手にはウェスカーにも見覚えのある注射器が握られていた。クリスはそれをウェスカーの心臓部に打った。
「っ……!」
ウェスカーはすぐに起き上がると、クリス達から離れて注射器を引き抜く。打ち込まれた注射器の銘柄を見ると「PG67A/W」と記されていた。
それはウェスカーが体内のウィルスを抑制する為に使用している専用の安定剤だった。投与する量を誤ると体調に著しい変化を及ぼす為、扱いには細心の注意を払わねばならなかった。
何故、これがクリスの手に。
さてはあの女、エクセラか……
「グゥアアアアアア……!!」
すぐに視界が歪み、頭の中を掻き回されるような凄まじい頭痛に立っていられなくなったウェスカーはその場に膝を突いた。気が触れるような苦しみに悶えながらも、ウェスカーの胸の内にはまだ黒い炎が燃え上がっていた。
何故いつも俺の道は、この男に阻まれるのだ……
「……おのれ、クリス!!」
凄まじい憎悪と怒りが込み上げ、ウェスカーはサングラスを足下に叩き付ける。
ウェスカーの目は闇の中で禍々しく紅い光を放っていた。
「これで終わりだと思うな……!!」
こうなれば最終手段に移るしかない。ウェスカーはクリス達に踵を返すと、用意してあった爆撃機に素早く乗り込んだ。
「待て!ウェスカー!!」
爆撃機はすぐに離陸したものの、クリス達もウェスカーの後を追って爆撃機に乗り込んでいた。
「……貴様らを甘く見過ぎたようだ」
ウェスカーはクリスを睨み付けながら、ここまで追って来るとは、相変わらず何としぶとい男だと思った。
「もうお前を助ける奴もいない!」
「必要ない。この爆撃機とウロボロスがあればな……あと五分でウロボロスの発射高度まで上昇する……一度放たれれば手遅れだ。気流に乗り各地に降り注ぐ。世界はウロボロスに染め上げられる。貴様の無駄なあがきも何も変えはしない……新たな時代の幕開けだ。俺はその創造主なのだ!」
先手を仕掛けたのはウェスカーだった。ウェスカーの千崩掌打をクリスは素早くかわし、クリスの銃弾をウェスカーがかわす。ウェスカーは銃弾を避けながらクリスに接近すると、そのままクリスを蹴り飛ばした。
クリスを狙うウェスカーに、すかさずシェバがナイフを手に突進する。だが、突き出されたナイフの切っ先をウェスカーは避けずに腕で受け止め、そのままシェバの首を締め上げた。
そのとき、ウェスカーの背後からクリスが再び安定剤をウェスカーの首に打ち込んだ。
「くっ……!!」
「思い通りにさせるか!お前はただの……アンブレラの残党にすぎん!」
ウェスカーが怯んでいる隙に、クリスは爆撃機のハッチを開くレバーを引いた。すぐに機体の後部が開き、平衡を失った機体は一気に急降下を始める。爆撃機はそのまま、地上へ落下した。