美奈の言葉を聞いた宮田の手が、静かに拳を握る。
宮田は不快そうに息を吐き出すと美奈の腕を振り払い、彼女の方を振り返る。
「今更俺に優しさだとか、君はそういうものを求めるのか?」
「……宮田、先生?」
「……美奈。君は俺と何年付き合ってるんだ。俺がそんなもの持ち合わせていないことくらい、知っていたんじゃないのか?」
例えば、今まで宮田は美奈から誕生日や記念日に何か貰おうと、自分からは美奈に何も渡したことがなかった。宮田からしてみれば、もし美奈がそういうものを要求する女だったらとっくに別れていた。
こちらが必要としていないものを押し付けられ、見返りを寄越せと言われているような行為には嫌気が差す。宮田はただそう考える男だった。
しかし今まで美奈はそういうことは何も言わなかった。本当は美奈も自分から何か貰ったら嬉しい筈、ということは宮田も分かっていたが、美奈は自分の気質を察して余計なことを言わないのだと宮田は思っていた。
正直に言えば、宮田と美奈の関係は普通の恋愛関係と言うより、主従関係に近いものがある。そもそも宮田には普通の恋愛感覚がよく分からなかった。
もしかすると自分は人を愛する心すら失っているのかも知れない、だからこそ恋人に対しても歪んだ愛し方しか出来ないのかも知れない。
宮田はそう思う度に心の底で自己嫌悪していた。そして何故美奈は、そういう自分を嫌いにならないのかとも思っていた。
今でも宮田は、もし美奈が自分との関係に嫌気が差して愛想が尽きれば、いつでも別れる覚悟はある。美奈を愛していない訳ではない。寧ろその逆で、自分のような感情の欠落した人間と一緒に居て、美奈が幸せになれる未来を宮田は想像出来なかった。
何時の頃からか、いずれ美奈も他の人間と同じように自分を軽蔑し、誰か別の人間と幸せに暮らすのだろうと宮田は何となく思っていた。
「先生は複雑な環境で育ってきましたから……心を閉ざす気持ちもわかります。でも、私が側で先生を支え続ければ、いつかは先生も心を開いてくれるんじゃないかって……」
「……で、俺はどこか変わったと思うか?」
「それは……」
俯く美奈の顔を見て、宮田はやれやれと頭を振る。
「そんなに優しさに飢えているんだったら、いっそ牧野さんと付き合えば良いんじゃないか?」
宮田は呆れ顔でそう言うと、机に向き直り仕事を始める。
「私はそんなつもりじゃ……私はただ先生に……」
「……美奈。いい加減仕事に戻れ」
「私はただ、先生にも幸せになってほしいと思っ……」
「美奈ッ!!」
宮田は勢い良く椅子から立ち上がると、背後の美奈を振り返り、その細い首に手を回した。
「!」
宮田に首を掴まれた美奈は目を見開き、宮田の顔を凝視する。その目は困惑と恐怖の色に染まっていた。その美奈の目の中に、宮田は村人達の好奇に満ちた視線を思い出す。
自分を見る、あの畏れと軽蔑の入り混じった眼差し。
美奈。恋人の君までもが、私を……俺をそんな目で見るのか。
「せ、んせ……」
美奈は必死に宮田の手を引き剥がそうとするが、宮田はそれに抗うように美奈の首を絞める手に力を籠めた。
止めろ……
その目の色を俺に見せるな……
そんな目で俺を見るな!!
気が付くと、美奈は動かなくなっていた。
瞳孔が開き切った生気のない美奈の目に、苦悶に歪んだ宮田の顔が映る。
自分のものとは思えない卑屈な表情を見て、やっと首を絞めていた宮田の手から力が抜けると、支えを失った美奈の体は人形のように床に崩れた。
宮田は呆然と自分の掌を見詰める。その手は微かに震えていた。
「……ハ、ハハ」
自然と口元が歪んでいく。今更人を殺すことに躊躇いは抱かない。
だが、今自分が手に掛けたのは自分の恋人。仕事として殺人をしたのでなく、私的な感情で人を殺したのは、これが初めてだった。
いつか自分がこんなことをしてしまう気がしていて、それが現実になってしまった愚かさに笑っているのか、衝動的に殺人まで犯す末期の自身を自嘲しているのか、自分が何に可笑しくなっているのか分からない。
「俺みたいな男と付き合ったのが運の尽きだったな……美奈」
宮田は震える手を握り締めると、美奈の前に屈み込む。その顔を見詰め、瞼を手でそっと閉じた。
―――――
深夜、宮田は蛇ノ首谷へ向けて車を走らせていた。
あの後美奈の遺体は死体安置室へ一旦隠しておき、暗くなった頃に車のトランクに押し込んで、折臥ノ森に埋めることに決めた。
『今夜日本各地で見られる彗星は何と333年ぶりに……』
くだらない情報を垂れ流す車内のラジオを宮田は切り、既に村の灯りも遠く離れた人気のない山道をただ走る。
やがて車が蛇ノ首谷に差し掛かると、眞魚川に架かる橋を抜けた辺りで宮田は停車し、車を降りてトランクを開けた。そこに入っている美奈の遺体を宮田は見下ろす。
「今日は特別な夜だな……美奈」
思えば、美奈と出かけるのはこれが初めてである。死んだ恋人とデートだなんて、全く笑えない。
宮田は美奈の遺体を肩に担ぐと、折臥ノ森の坂を上っていく。坂の中途に木が生えていない開けた場所を見付けた宮田はそこをスコップで掘って穴を作ると、美奈の遺体を埋めた。
遺体の処理を終えた宮田は額から伝う汗を拭うと、美奈を埋めた辺りの土を見下ろす。
そのとき、ふと名前の顔が思い浮かんだ。
俺のこんな姿を知ったら……恋人を殺したと知ったら、名前は俺をどう思うだろうか。
宮田が物思いに耽っていると、ポタリと頬に何かが触れた。宮田が空を見上げると、ザアアと雨音がし始める。
足下が泥濘む前に早く帰らねば……そう思った宮田が歩き始めたそのとき、突然地面が揺れた。
「……何だ?」
地震だろうか。妙に嫌な予感がする。
とにかく早く病院に戻ろうと思い宮田がスコップを拾おうとしたそのとき、宮田の心臓がドクリと高鳴った。一瞬時が止まったような錯覚がして、宮田はその場に佇む。
ウウゥウウ――……
そのとき、何処からともなく鼓膜を貫くような、耳を劈くサイレンのような音が鳴り響く。
「これは……っ」
頭の中を掻き回すような音に耐えられず、宮田はその場に蹲る。
何故だろうか。理由は分からないが、とてつもない、恐ろしい『何か』が迫り来る感覚を宮田は覚えた。
延々と鳴り止まないサイレンの音は絶間なく頭蓋を刺激し、意識を混濁させていく。
「くっ……」
ガンガンと頭を殴られ続けるような感覚に宮田の意識は朦朧とし、宮田はそのままその場に倒れた。
―――――
「……うっ」
冷たい雨の滴が頬を打つ感覚に、宮田は目を覚ました。
「…………」
うつ伏せに倒れていた宮田は体を起こすと辺りを見回す。
「俺は、一体……」
どれくらいの間気絶していたのだろうか。
随分時間が経ったような気もするが、まだ雨は降っているし、夜も明けていないことからそれほど時間は経っていないと思われる。
それにしても、地震と共に鳴り響いたあのサイレンの音……一体何だったのだろうか。
宮田は立ち上がると、気絶した拍子に白衣のポケットから落ちた懐中電灯を拾い、灯りを点けた。
「……!!」
ふと灯りに照らされた周辺を目にして、宮田は驚愕した。
美奈の遺体を埋めていた場所の土が掘り返され、遺体がなくなっていた。
「馬鹿な……」
宮田が動揺していると、何処からか人の声のようなものが聞こえて、宮田はハッとそちらを見る。
こんな夜に、一体誰が……。
ここで自分の姿を見られるのも都合が悪い。とにかく一旦病院へ帰るとしよう。
そう考えた宮田は坂を下りて麓に駐車していた車へ向かったが、地震で土砂崩れが起こったらしく、車が土砂に巻き込まれて使い物にならなくなっていた。
土砂に押し潰された自分の車を見て、宮田は何だか嫌な予感がした。自分の実の両親も地震で発生した土砂崩れに巻き込まれて死亡したことを宮田は知っていた。
自分が気を失っている間に、どれほどの規模の地震が起こったのだろうか。
幸いトランクの方は無事だったので、取り敢えず使い物になりそうなスパナと発煙筒を取り出す。
そのとき、ふと背後に違和感を感じた。振り向くとそこには、誰かが立っている。
「……誰だ?」
宮田は相手にそう尋ねるが、相手が答える様子はない。辺りは暗く、霧が立ち込めて視界が利かない。
宮田は懐中電灯の灯りを相手の方へ向けた。
「……!?」
灯りに照らされた相手の顔を見た宮田は、言葉を失った。
「灰山さん……?」
宮田にそう呼ばれた男は、昨日病院を退院したばかりの患者だった。
しかし宮田が驚いたのは灰山が深夜にこの場所に居ることよりも、彼の風体が異様だったからだ。
肌が妙に青黒く、目からは血を流し、それが涙のように頬を濡らしている。
ゆっくりと近付いてくる灰山を宮田が呆然と見ていると、宮田の持っている懐中電灯の灯りにキラリと何かが反射する。
よく見ると灰山は手に包丁を持っていた。そして不意にそれを宮田に向かって振り翳してきた。
「!」
灰山が宮田に包丁を突き刺そうとするより先に、宮田は灰山の頭部をたった今トランクから取り出したスパナで殴打していた。
灰山は呻き声を上げるとその場に蹲り、そのまま動かなくなった。
「灰山さん……」
これも職業病か、病院では入院患者が抵抗して暴れたり殴り掛かって来ることも珍しくない所為か、そういった人間の扱いに慣れてしまっている宮田は、反射的に相手を捩じ伏せる行動を取ることができた。
宮田は灰山の側に屈み込む。スパナで殴った部分の頭部が凹んでいた。この状態だと頭蓋骨も陥没しているだろう。
先に襲い掛かってきたのは相手であるから正当防衛に当たるのかも知れないが、それにしても人を殺したというのに宮田は随分冷静でいられた。
灰山の死を確認した宮田は、次の瞬間には彼の遺体をどうするか考えていた。
(丁度灰山さんは最近まで体調不良で入院していた。確か一人身で家族も居ない……公には退院後に容態が悪化し、再び病院に運ばれた後、死亡したことにするか……)
遺体の側でそんなことを平然と考えられる自分に、宮田は冷めた嫌悪感を覚える。
そして自分は人を殺すこと、その後の処理などに手慣れ過ぎていることを改めて自覚した。
ここが夜の霧深い蛇ノ首谷といえど、このままこうしているのはまずい。とにかく遺体をどうにかしなければと宮田は思った。
しかし車は使いものにならない。夜とはいえ、担いで運べば人の目に触れる可能性もある。
(灰山さんの遺体は美奈と同じように埋めておき、後日回収するとしよう)
そう思い至った宮田は灰山の体に触れようとした。が、そのとき灰山の体がピクッと動いた。
「……!?」
まさか、生きているのか?
宮田は思わず灰山から退いた。
灰山は奇妙な呻き声を上げながらズルリと起き上がったかと思うと、目の前の宮田の姿を捉える。
「フ、フハ、ヒヒヒヒヒ……」
灰山は不気味な笑みを浮かべて、手にした包丁で再び宮田に向かって襲い掛かってきた。
その様子は宮田に激昂しているのでも、自分の身を護ろうとしている様子でもない。
宮田は灰山の攻撃を避けつつその様子を見ている内に、何かがおかしいと感じた。
宮田は灰山の隙を突いて灰山の包丁を持った手を殴打する。殴られた衝撃で灰山の手から包丁が滑り落ち、灰山は痛みに腕を押さえた。
宮田は容赦なく灰山の腕を押さえ付け身動きできないよう後ろ手に捩じり上げると、そのまま橋の方へ灰山を引き摺るように歩かせる。
宮田に引かれている間、灰山は抵抗しながら訳の分からない言葉や奇声を叫び始めた。その様子は完全に常軌を逸していた。
橋に辿り着いた宮田は灰山の体を橋の欄干に押し付け、その下を見下ろす。橋の下には羽生蛇村の中心を流れる眞魚川が流れているのだが、その川の水が暗闇でも分かるほど赤く染まっていた。
「何だ、これは……」
異様な光景に宮田が呆然としていると、灰山が再び奇声を上げ始めたので宮田は我に返る。
宮田はグッと灰山の頭を手で押さえ付けると、思い切り欄干に打ち付けた。灰山は苦痛の呻きを上げて再び動かなくなった。
宮田はぐったりと動かなくなった灰山の体を欄干に乗せると、そのまま橋の下に突き落とす。バシャアンと灰山の体が川に落ちる音が響いた。
灰山の体は見る見る眞魚川の濁流に呑まれ、最後には何事も無かったように跡形も見えなくなった。
「…………」
灰山のあの状態では、万が一助かったとしても誰に何をされたのかも説明出来ず、川に落ちたことで自分と接触した形跡も消えているだろう。
もし証拠が出ても、錯乱した灰山と私のどちらの言葉に信が置かれるかは考えるまでもないことだ。
宮田は踵を返すと蛇ノ首谷の坂を上がり、病院のある粗戸方面へ続く道を辿った。