Paradise Regained1

この世の生物は、死ねば蘇ることはない。古くから願われてきた不老不死は儚い夢のままで、これだけ科学が進歩した現代でさえ「永遠の命」は確立されていない。
だが、それがウィルスの力で叶えられるとしたら―我々愚かな人間が、その手段を使わない筈がない。

この世に救済の神はいない。無償の祈りは届かない。
だから悪魔よ。私に悪智の限りを授けてくれ。どんな手を使ってでも、再び名前を取り戻す為に。
私はその為ならばこの命―否、魂までも魔物に捧げてやろう。

―――――

四肢を拘束され暴れる名前の姿を、ウェスカーは窓ガラス越しに見ていた。窓の向側には、灰色のコンクリート壁で覆われた空間の中心に、名前の横たわる寝台だけが設置されている。
名前の絶叫と枷の鎖が擦れる金属音が壁に反響し、虚しくも狂気めいた残響を残していく。名前はこの部屋に隔離されてから、もうずっとこのような状態だった。

名前は嘗てアークレイ研究所に勤務する研究員だった。ある日ネプチューンの容態観察をしていたところを彼女の研究成果を横取りしようとしていた研究員に背後から突き飛ばされ、名前はそのまま巨大水槽に落下した。血のにおいを嗅ぎ付けたネプチューンに彼女は瞬く間に襲われた。
血で赤く染まった水槽に沈んでいる名前を見付けたのは、その日水槽の水質管理を任されていたウェスカーだった。ウェスカーはすぐに水を抜いて中に入り、激しく暴れるネプチューンの脇を通り抜け、水槽の底に倒れていた名前を抱え上げた。名前の着ていた白衣が無惨な血に染まっていたのをウェスカーは今でも覚えている。

ウェスカーは救護班にすぐ水槽室へ来るよう連絡を取り、救急手当をしようと名前の白衣を脱がせた。ネプチューンに噛まれた傷跡は凄まじく、破れたシャツの間から皮膚が抉れて肉が見える程酷い傷だった。ウェスカーは自分の白衣を脱いで名前の傷口に巻きつけたが、それも意味を為さぬとばかり瞬く間に血に染まっていった。

「……名前、私の声が聞こえるか!?」

名前の胸に耳を当てると鼓動はしていたが、口元に手を翳すと呼吸していなかった。大量の海水を飲み込んだ所為で、肺が機能していないのだろう。
ウェスカーがサングラスを外すと、生々しい名前の傷と血の色が鮮やかに視界に映った。そのまま名前に人工呼吸を施す。空気を送り込み、傷に触れないよう気を付けながら胸の中心を押す動作を繰り返していると、名前が激しく咳き込んだ。

「名前……!!」

ウェスカーが呼び掛けると、名前は薄らとその目を開けた。

「……ウェス、カー?」
「ああ。私が見えるか?」
「う、ん……」
「今救護班が来る。それまでの辛抱だ」

すると突然名前がウェスカーの腕を掴んだ。その力が余りにも強く必死なものだったので、ウェスカーは名前の顔を見た。

「も、しも……私が、し……」
「何だ?」
「わ、たしが、死ん、だら……」
「そんなことを言うな」
「私、を……使って……」
「……?」

名前の言葉を理解しようとウェスカーは名前の口元に耳を寄せる。その後に紡がれた名前の言葉に、ウェスカーは思わず目を見開いた。名前はそのまま目を閉じ、再び意識を失った。

その後、駆け付けた救護班によって名前は治療されたが、傷の程度からしても命が助かる望みは薄く、敢え無く名前はそのまま息を引き取った。
名前が亡くなってから、ウェスカーの脳裡には最後に名前から言われた言葉が響いていた。

――私の体を使って。あなたの研究に。

意識を失う直前、名前はそう言っていた。ウェスカーは名前に借りがあった訳でもなく、友人と言うには余り接点があった訳でもない。何故名前がそんなことを言い出したのか、ウェスカーには見当が付かない。そして、彼女の望みに答えてやる義理心もウェスカーは持ち合わせていない。

謀に掛けられて信用や立場を失うだけでなく、名前のように命を落とす研究員もアンブレラではいくらでもいる。彼女も同僚というライバルの罠に掛けられた、哀れな研究員の一人に過ぎない。
そこまでの結論に達しても、ウェスカーの胸はざわついていた。一体この感覚は何なのか、ウェスカー自身にも分からない、何とも例えようのない複雑なもの。

「惜しい人材を失ったものだ……」

狂った感覚を持つ者、同僚間の蹴落とし合いにも耐え忍べる力を持つ者だけが成功するこの過酷な世界で、名前は数少ない、まともな人間だったことはウェスカーも知っている。ウェスカーは生前の名前が研究に励む姿をずっと見ていた。誰かを貶めることもなく、ただ自分に与えられた課題に純粋に取り組む姿は、ウェスカーには新鮮な姿に映っていた。
そのことを思うと、ウェスカーの心に静かな怒り―復讐心のようなものが湧き上がった。
名前を奸計に陥れた人間だけは見付けなければならない。ウェスカーはそう思った。

―――――

あれから名前の遺体は一旦、死体安置室に保管されていた。遺体は用途が無ければそのまま廃棄処分されるか、或は実験体として利用されるかのどちらかしかない。
そこでウェスカーは密かに死体安置室に入り込んで名前の遺体を回収し、自分の個人研究室で監視下に置くことにした。ウェスカーには、名前の命を取り戻せるかもしれない目算があった。

ウェスカーはその後、名前を水槽に突き落とした研究員が誰なのか、監視カメラの映像や水槽室の入室履歴から突き止めると、その研究員に仕事上の話があると言い、ある部屋に呼び出した。その部屋には実験体のリッカーやケルベロスが檻に入れられ隔離されていた。

「一体何の話だウェスカー?」

ウェスカーに呼び出された研究員は時間通り、部屋にやって来る。

「仕事中に呼び出して悪いが、大事な話がある。君が管理しているこのリッカーなんだが……」

ウェスカーはそう言って、リッカーの入った檻の前で足を止めた。

「ああ、それが何だ?」

研究員はどうでもよさげに檻に入ったリッカーを見た。

「容態がどうも芳しくないようだ」
「……何だって?」

ウェスカーの言葉を聞いた研究員は、薄暗い部屋の中でも分かるほど動揺していた。

「そんな!昨日まで状態は安定していたんだが……」

自分が管理している実験体が死亡した場合には、その原因を調べて報告書にまとめ、研究所に収容されている実験体数や個々の情報を管理している部署に提出しなければならない。その理由が実験体に投与したウィルスが不適合で死亡したなど、研究的な理由であれば問題ない。だが、死亡した原因が付きとめられないと、管理を怠っていたのではないかとか、原因を突き止める能力すら無いと見做され、その後の自分の進退に関わってくる。

この男は他人を陥れてでも昇進することを望んでいるような人間だから、この話に食い付かない訳がないとウェスカーは読んでいた。
研究員は白衣のポケットから急いで檻の鍵を取り出すと、急いでリッカーが入った檻の扉を開ける。
そして研究員が完全に檻の中に入ったのを確認すると、ウェスカーは突然檻の扉を閉め、鍵を掛けてしまった。

「!、おい……ウェスカー?」

実験体は普段、鎮静剤を打たれているので襲い掛かってくることはない。だがウェスカーは数時間前、リッカーにB.O.Wを一時的に興奮させ闘争状態にさせる薬を餌に混ぜて与えておいた。

「ウェスカー、あ、開けろ、開けてくれ!」
「…………」

檻の扉に縋りつく研究員をウェスカーは何も言わず見ていた。扉を開けようとする研究員の背後には、リッカーが忍び寄っていた。

「な、何故君がこの檻の鍵を……」
「今、君が慌てて檻を開けたときにポケットから落としたのを拾っただけだ」
「そんな……ひっ!」

研究員がポケットを探ろうとしたとき、その背後からリッカーが研究員に飛び付いた。

「や、止めろ……ギャアアアアアーーッ!!」

研究員の恐怖に満ちた絶叫が木霊する。リッカーの鋭い爪に体を切り裂かれ、脳髄を吸い取られていく様を、ウェスカーは無情に見下ろしていた。

「ウ、ウェス、カ……な、ぜ……」
「自分の胸に訊いてみろ」
「う、あ……ぐ……っ」

自分の罪を顧みる前に、研究員は全身を痙攣させながらガクリと項垂れ、あっという間に息絶えた。お前の罪はこんなものでは済まないと思う冷徹な怒りがウェスカーの胸を占めていた。

ウェスカーは持っていた鍵を檻の中に放り捨てる。ウェスカーは落とした鍵を拾ったと言ったが、実際は研究員が鍵を開けた後に、隙を見てポケットから素早く抜き取っていたのだった。だが、焦っていた研究員は全く気付く様子はなかった。

「私の分まで甚振っておいてくれ……その外道を」

ウェスカーはリッカーの入った檻に向かってそう言うと、踵を返し研究室を後にした。


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