どちらが狂気か1

今日は久し振りに司郎さんのところへ行く。だから私は目一杯のお洒落をした。
でも、あまり派手にするとお父様に見つかったら下品だと叱られる。今日は宮田医院へ行くだけだから、化粧は紅を引くだけにしておこう。

化粧机の抽斗ひきだしを開けて、この間お母様から婚約祝いにと贈られた紅を取る。鏡を見ながら小指に取った紅を唇に引くと、それは紅い三日月のように、鮮やかな色に引き立つ。

自分の顔立ちが一瞬にして女のものへと変わるこの瞬間が、化粧を始めたての頃は何だか下卑たように感じられて嫌だった。けれど、司郎さんに出会ってからは、そんなもう一人の私も好きになれた。それは司郎さんに出会って、自分が女であることを今までより意識し始めたからだと思う。

司郎さんとの婚約が取り決められたのは、一月前のこと。家柄の都合で親が決めた縁だけれど、私は以前から時々病院で見掛ける司郎さんがずっと好きだった。司郎さんの物静かで知的な態度や、男らしく端正な表情を見る度に、全てが素敵だと思えた。

若くして宮田医院を継いだ司郎さんは、いつ会っても仕事でお忙しい様子だった。だから、お互いに知り合いとはいっても、実は司郎さんとはまともにお話をしたことすらない。まだお互いによく知らない関係でもあるし、きっと司郎さんにとって私は、好きとも嫌いともいえない、ただの許嫁だろう。
それでも司郎さんに嫁いだら、私は司郎さんを出来る限り支えたいとも思うし、もし、司郎さんが私を余り愛してくれなかったとしても、仕事に励む司郎さんを尊敬する気持ちは変わらない。


真夏の強い日差しに、白い日傘が映える八月。私は支度を終えて、家から程近い宮田医院を訪れていた。
病院の待合室に入ると、受付には誰もいない。羽生蛇村は閉鎖的な田舎のため、病院も慢性的に人手不足らしく、受付が不在のことは珍しくなかった。
私はそのまま受付を通り過ぎ、司郎さんが居る病棟の院長室へ向かう。暫く廊下を歩くと途中に看護婦さんが立っていたので、私は声を掛けた。

「ご無沙汰しております」
「まあ、名前さん。お久しぶりです」

振り返った看護婦さんは顔馴染みの女性だった。

「司郎さんを知りませんか?」
「宮田先生なら、院長室にいらっしゃいますよ」

司郎さんが今日は当直なのだと分かり、私の声は自然と弾んだ。

「ありがとうございます」

看護婦さんに会釈をして、私はそのまま院長室へ向かう。早く司郎さんに会いたいという気持ちから、私の足は自然と早まっていた。
そのまま誰にも会うことなく院長室の前に辿り着き、私は扉の前で立ち止まる。そうして久しぶりに司郎さんに会う緊張を解すため深呼吸した後、扉越しに声を掛けた。

「司郎さん?」
「…………」
「司郎さん、いらっしゃいますか?」
「…………」

院長室の扉向こうから返事はなく、ただ沈黙だけが流れた。返事がないということは、院長室には司郎さんも誰もいないのだろう。勝手に扉を開けるのは失礼だし、司郎さんを捜して病院をうろつくのも仕事の邪魔になる。院長室にいないのなら、今日は司郎さんに会うのは諦めよう。
そう思って私は院長室の扉に背を向けた。

「う、ぅ……」

来た道を戻ろうとしていたとき、何処からか人の呻き声のようなものがして、私は足を止めた。

「何……?」

気の所為かとも思ったけれど、どうにも胸がざわついて嫌な予感がした私は、もう一度院長室の扉へ声を掛けた。

「誰か、中にいらっしゃいますか?」

扉の向こうからは何の言葉も返ってこない。それでも、耳を澄ませると幽かに人の呻き声のようなものが扉の向こうから聞こえている。もしかしたら患者さんが発作を起こしているのかもしれない。そう思った私は居ても立ってもいられず、失礼しますと言って扉を開けた。

「!、司郎さん……?」

扉を開けると、目の前には司郎さんが立っていた。どうやら司郎さんも私の声を聞いて、内側から扉を開けようとしていたようだった。

「君は……」

司郎さんは私を見て一瞬驚いた顔をする。勝手に院長室へ入ろうとして驚かせてしまったのだと思った私は、司郎さんに頭を下げた。

「司郎さん、すみません。私……」

話している途中で私の首に何かが巻きついて、私はそれ以上声を出せなくなった。
私の首を掴み、絞めるもの。それは、司郎さんの両手だった。

「司、郎さ……」

どうして……どうしてこんなことを?

突然の出来事に訳が分からなくなる。私の首を絞める司郎さんの手を引き剥がそうとするほど、司郎さんの力は強くなっていく。
司郎さんの言葉や表情からは、何一つこうする意味が汲み取れない。
私の意識は次第に朦朧として、目の前が暗くなっていった。

―――――

目が覚めると、私は院長室の床に横たわっていた。

「…………」

先刻の司郎さんの姿は夢であってほしい。そう思ったけれど、院長室に居るということが、私に現実を思い知らせていた。
司郎さんは何のために私の首を絞めたのか。あのまま殺すつもりだったのだろうか。
けれどこうして生きているということは、司郎さんは私を殺すつもりはなく、ただ気絶させるのが目的だったのかも知れない。

それは一体どうして?

辺りを見回しても、司郎さんは既に院長室には居なかった。代わりに、一台のカーテンが掛けられたベッドが目に留まった。

私は立ち上がり、そのベッドへ近付く。さっき聞いた呻き声のようなものは司郎さんのものではない。あれは女性の声だった。
私は司郎さんへの不信感から、患者さんにも何かしているのではないかと不安になり、失礼と思いながらも恐る恐るカーテンの隙間からベッドの様子を窺った。

「……っ!」

カーテンの向こうの景色を見て、私は息を引いた。
ベッドの上には、手錠と足枷を付けられ、くつわを噛まされた看護婦が横たわっていた。余りの光景に、私はカーテンを半開きにさせたまま、口元を両手で覆った。

司郎さんは、何を考えてこんなことを。

ベッドに横たわる看護婦さんは、眠っているように動かない。しかし見てしまった以上、このままにしておけない。
私はベッドへ近付くと、恐る恐る看護婦さんの四肢に取り付けられた手錠や足枷に触れて取り外せないか調べた。するとそれらには鍵穴があり、鍵がないと開けられないようだった。次に私が轡を確認しようとしたとき、看護婦さんの目が突然カッと見開いて、驚いた私は尻餅を突きそうになった。

「うぅ……っ!」

看護婦さんは苦しげな呻き声を漏らし、バタバタとベッドの上で藻掻き始める。

「お、落ち着いてください!」

私がそう声を掛けても、看護婦さんは興奮したように轡の隙間から悲鳴を上げて暴れ続ける。

「どうしたら……」

轡には鍵が付いていないので外すことができそうだ。けれど、このまま轡を外したら、叫ばれて司郎さんに見つかるのでは……。
看護婦さんは恐慌状態に陥っているようで、さっきから私の声も聞こえていないようだった。

「……ごめんなさい。少しだけ、待っていてください。手錠と足枷をどうにかできないか、何か探してきます」

看護婦さんには申し訳ないが、私はあえて轡を外さず、とりあえず手錠と足枷の鍵、もしくは破壊できるようなものがないかを探すことにした。そしてこのことを報せるために、同時に別の看護婦さんを捜すことにした。

―――――

「一体、どうしたんだろう……」

院長室を出てからもう数十分になるだろうか、私は司郎さんに見つからないよう病院を歩き回っていたが、なぜか看護婦さんの姿は1人も見当たらなかった。

いくら人手が不足していると言っても、流石に院内を歩き回れば、いつもは誰かしらに会えていた。病院に着いたときに司郎さんの居場所を教えてくれた看護婦さんの姿も見当たらない。それに今日は休診日でもないのに、やけに静かなのも何だか不気味だった。

「……?」

そのとき、ふと背後に気配を感じて私は振り返る。

「誰!?」

警戒心から身構えつつ振り返ると、そこにはベッドに拘束されていた筈の看護婦さんが立っていた。

「……あなた!」

私は看護婦さんの元へ駆け寄り、無事を確かめる。看護師さんの腕には見るからに痛々しい鬱血痕が残っていたが、表情はさっきよりも大分落ち着いていた。

「無事で良かった!……私が分かりますか?」
「ええ、さっき……助けに来てくれた……」
「遅くなってごめんなさい。でも、どうやってここへ?」

看護婦さんは蒼褪めた顔をしていたが、私を見ると力ない微笑を浮かべる。

「婦長が私を見つけて、助けてくれました……それで、これ以上何をされるか分からないから逃げた方が良いと言われて……」
「……そうだったんですか。とにかく無事で良かった」

私の言葉に看護婦さんは気まずそうな表情を浮かべて、何か言いにくそうに口を開いた。

「……あの、あなたは宮田先生の婚約者なんですか?」
「?、ええ。そうですけど……」
「……あの、言いにくいのですが」
「何ですか?」
「……宮田先生は以前から、患者や看護婦にこういうことをしているようなんです」
「……え?一体、何のために?」
「理由は分かりません。ただ、何らかの目的があってしているようですが……」


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