「……うっ」
そのとき名前が意識を取り戻した。メスを握り締めながら名前を見下ろすと、名前の方も私を見上げていて、思わず目が合った。
「お願い、美耶古様だけは、助けて……」
名前は私の手握られたメスを見て自分がどうなるのか分かったらしく、震える手で私の白衣を掴んだ。麻酔薬の作用か、思うように体を動かす事が出来ないようだった。
「美耶古様だけは……」
名前は目に涙を浮かべ、ただひたすら私に縋る。美耶古様の身を案じているということは、やはり、名前が本当に村の秘密を知っていたということが分かった。
「何をしている」
背後で義父が私を急かす声がする。私の心臓の鼓動は、耳を聾さんばかりに鳴り響いていた。メスを持つ手が汗に濡れる。手が異様に震える。
殺せ、殺せ―
背後から呪詛のように圧し掛かる義父の思い。
無理だ。こんなのはただの殺人だ。
そう叫び出したかった。
だが、私がここでメスを放り投げたところで、名前は義父に殺されるのだろう。
……もう、やるしかないのだ。
顔に赤く、生温かいものが飛び散る感覚がして、我に返った。
気付くと私は、名前の心臓にメスを突き刺していた。
ふと、義父の持っていた懐中電灯の逆光で、名前を突き刺す自分の姿が映り、私は自分がしてしまった事の現実感に堪え切れず、その場に蹲り嘔吐した。
「よくやった。これで私は安心して、お前にこの医院を継がせることができる」
義父は名前にも、嘔吐する私にも目もくれずに病室から出て行った。嘔吐が止まる頃には名前は既に動かなくなっていた。そのとき私は新たに後悔した。
早く治療していれば名前は助かったかもしれないのに。嘔吐などしている暇があったら、彼女を助けられたかもしれないのに。
その後悔は次第に胸の内で黒々と大きくなっていき、私は悔恨の涙を流した。
私はこんな事をするために、犀賀家に引き取られたのか。
こんな事をするために、犀賀医院の院長になったのか。
こんな事をするために、今まで医学を学んで来たのか。
力無く震えていた私の手には血管が浮き上がり、掌に爪が喰い込んで血が流れるほど強い拳を作っていた。
―――――
ガクリと視界が闇に落ちて、ハッとした。
「……………」
私は夢を見ていた。ただの夢では無く、過去の記憶の夢。
腕時計の指針は既に五時を指していて、外から朝を告げる鳥の囀りが聞こえた。
「何故、今になって……」
名前を手に掛けた後、私は心の一部に深い溝が出来たような空虚感を覚えるようになっていた。夜になると訳も無く涙が零れたり、目を閉じれば名前の胸が血に染まる瞬間をフラッシュバックしたり、眠れば悪夢に魘される日々が続いた。余りに酷い時は精神安定剤を服用して何とか気分を落ち着ける日々が続いた。
だがその苦悶の日々も、院長の務めを果たすうちに薄れて行くようになった。義父の跡を継いでから、私は病死と見せかけて、村にとって都合の悪い人間を何人も消してきた。初めて人を殺したトラウマ―それがたったの数年でここまで落ち着くとは、自分で自分の冷徹さに嫌悪した。
これが犀賀家当主としての責務―そう自分に言い聞かせるほど心が無感動になっていく。青年時代のあの頃より、もっと、氷のように。
私は自分が益々無感動な人間になるのを厭わなかった。それは環境がどうであれ、自分でそういう人格になる事を受け容れた事になる。この異常な日々は、自らの命を断つ事で終えられる。だが、今更多くの人を殺しておきながら死ぬのは無責任にも程がある。私はどんなに人を殺す事に苛まれても、そうしようとは思わなかった。
「名前……」
久しぶりに見た名前の夢は、何かの前兆のような気がしていた。
―――――
今年、神代の娘の美耶古様に嫁入りのお印があり、御蚕子様迎えの儀式が行われる事が決まった。そして神の花嫁である美耶古様の介添人は、数えで二十四歳になる女であるよう神代家からの伝書に記されていた。
私は診察室の鍵の掛かった棚を解錠すると、そこから一冊の帳簿を取り出した。この帳簿は羽生蛇村に住む住人の情報が細かく記されたものだった。
羽生蛇村唯一の医院を運営する犀賀家は、羽生蛇村が開拓された当初から存続する家柄であり、羽生蛇村の住人は老若男女問わず皆犀賀医院で生まれ、生まれてから死ぬまでの定期健康診断等は全てこの医院で行っている。つまり名前や性別は勿論、年齢、身長、体重、持病、家族構成等、戸籍謄本では把握出来ないような細かなプライバシーまで病院側は把握する事になる。私の手の中にある古びた分厚い冊子は、そういった羽生蛇村民の細かな情報が掲載されている帳簿だった。
犀賀家が村にとって都合の悪いものを消す以上、こうしたリストは絶対不可欠なものである。帳簿は犀賀家に代々受け継がれていき、当時の犀賀家当主が管理する慣習になっていた。
私は早速名簿帳を開いて、神代の命令通り二十四歳の女の名を探した。帳簿に記された名前を指で辿って行くと、ある名前の上で手が止まる。
河辺幸江――
頁を捲れども、まるで運命の悪戯のように、二十四の女は他に載っていなかった。
河部幸江はこの医院の看護婦であり、今まで荒んでいた私を何かと気遣ってくれていた。わざわざ私の為に昼食の弁当を作って来たり、夜勤で病院に泊まり込んでいる私の健康を心配したりと、最初は煩わしいと思っていただけだった。
だが、彼女は私に好かれようと、自分に興味を持ってもらう為でなく、心から私の身を案じてくれているのだと解り始めたとき、その健気な態度に、私は自然と幸江に心を開くようになっていた。幸江と日々を過ごす内、私の暗鬱な人生に一条の光が差した心地がしていた。
しかしそのささやかな幸福さえ、この忌まわしい村の慣習によって奪い去られようとしている。
一層幸江と共にこの村から逃げてしまおうか。
……いや、何処へ逃げるというのか。
私は犀賀家の当主、この村の人間。世間の事など知らない。そして犀賀家の当主として、神代家に逆らうのは死に値する。
どんな環境であれ、私は犀賀家の養子として育てられた。
義父母は、突然孤児になった私の生きる場所を与えてくれた人達。その犀賀家を棄てて、私が女と駆け落ちをする。それは無理だと思った。あまりにも無責任でしかない。
その前に、私にとって幸江は一体何なのか。それが、未だ私には解らない。
大切な存在。掛け替えの無い存在。
愛して、いるのか――
……よく、解らない。
これが愛なのか。冷たく、暗い時を過ごした私には、愛情というものがよく分からない。
幸江を大切に想っているから助けたいのか、ただその命を助けたいと思うのか、それが自分でも分からない。
だが私の気持ちがどちらであろうと、私は犀賀家当主の責務から逃れることはできない。初めから私に選択権など何も無い。ただ、やり遂げなければならない。
儀式当日、私は幸江を病院に呼び付け薬品を嗅がせ気絶させると、そのまま車に乗せて幸江を儀式の場へ連れて行った。途中意識を取り戻した幸江は顔に布を被せられ、暴れる体を儀式の参加者に抑え付けられて運ばれた。そして儀式の為に用意された祭壇の前で、私は連れられて来た幸江の胸に焔薙を突き立てた。幸江の白衣が、絹を裂くような絶叫と共に見る見る血に染まっていく。その光景に、初めて手に掛けた名前の姿が重なった。
――酷い目眩がした。
焔薙の柄をきつく握り締めてそれを堪え、次はその隣に居る美耶古様に焔薙を向けた。
だが、闖入者の登場という予期せぬ邪魔が入り、儀式は失敗に終わった。
そして直ぐに、村が怪異に襲われた。原因は解っている。儀式が失敗に終わった証だ。
幸江さえ手に掛けたというのに……結果がこれか。
生きる屍となった村人が徘徊し、赤い水が村を浸水していく呪われた様を、私は波羅宿集落の高台から見下ろす。私は車のトランクに入れておいた狩猟銃を手に、スコープから遠くの景色を覗いた。
「…………?」
そこから見えたものに、私は一瞬自分の目を疑った。
あれは――
見覚えのある女が居た。私は高台を下りてその女に近付く。
それは私が犀賀医院を継いだ、あの忌まわしい夜に手に掛けた名前だった。
名前は死後、波羅宿集落と犀賀医院のある区画・比良境の森に埋葬した。彼女はあの日と同じ、みすぼらしく薄汚れた寝間着を着て、赤い水に浸かりながら徘徊していた。
そのとき、私の視線に感付いたかのように、名前がグルリと首を捻り、こちらを見た。目から血を流した土気色の顔。眼窩が浮き彫りになる程落ち窪んだ眼だけは、獣のようにギラギラと炯っていた。
名前は錯乱した声を上げながら、私に向かって全速力で走って来た。私は狩猟銃で名前を撃ち落とそうしたが、名前の胸から血が流れているのを目にした時、引金に掛けていた手を止めた。
忘れもしない。
あれは、私が名前に止めを刺した傷だ。
名前は私に体当たりし、私の首に手を掛けた。
「美耶古、様ハ……何処……!!」
名前は私の首を締めながら唸るように言う。
そして、気付いた。
名前もずっと苦しんでいたのだと。
私に殺されたあの日から、死して猶地の底で自分の主である美耶古様の身を案じていたのだ。そして美耶古様の側に居る事が出来ない積年の無念を募らせていたのだ。
私は右手に持っていた狩猟銃を落とし、名前を見た。
「……殺してくれ……私を」
私は抗う事無く、名前を受け容れた。
殺してくれ。
これは、私の心からの叫びだった。
どうせ、すべては無為に終わったのだ。
初めて殺した名前に殺されるなら、それも構わないと思った。
名前が私に飛び掛かる。その衝撃で私はそのまま後ろに倒れた。
私の体は赤い水の中へ沈んでいく。その苦しみの中で、奇妙な、心地好い快楽のような気分が滑り込んで来る。恐らく、これが楽園―呪われた世界を生きる人間の感覚なのだと思う。
ああ、私は人であった事さえ忘れるのだろう。私がまだ幼く、優しい実の両親と過ごした三田村省悟の記憶も、今の私が犀賀省悟である事も。
「すまなかった……」
私は静かに瞳を閉じた。
―――――
(あの日、私が君を殺したように)
(今、君が私を殺してくれ)
(例え永遠に、この世界から逃れられないとしても)