赤イ海ノ記憶3

目を開けると、視界一面が真っ赤だった。
驚いて辺りを見回すと何処を見ても赤一色で、自分の体が無いことに気付く。
それで私は、これが夢であることに気付いた。

赤い視界はゆらゆらと不規則に揺れて、その度に泡が天に消えていく。
それを見ていた私は、自分が水中に居るのだと分かる。そうして海中を蠢く泡の隙間から、何かが落ちて来るのが見えた。

あれは、人……?

落ちて来たものをよく見ると、それは人間―少女だった。
少女は腕の中に幼い男の子を大事そうに抱えながら、そのまま海の底へ沈んでいく。
まるで深い眠りに着くように落ちていく姿に、私は直感で、少女とその腕の中に居る男の子が誰なのか分かった。

少女に向かって呼び掛けようとしたその瞬間、はっとして私は飛び起きた。

「…………」

私の体は、ぐっしょりと冷や汗に濡れていた。
頬を何かが伝う感覚がする。汗かと思ったが、自分の視界がぼやけたことで、それが涙ということに気付いた。

「三上先生……」

あれは夢のような光景だったけど、夢ではない。
きっと別の世界の何処かで起こった現実。

あの少女と幼子は、先生の記憶の少女と幼い頃の三上先生だ。

何故か自分でも分からないが、これだけは疑いようのない真実だと私は直感した。

「……逢えたんですね」

三上先生は、やっと少女に逢えたのだ。
そう分かった瞬間、止め処なく涙が零れ落ちる。
嬉しいのか、悲しいのか、自分でも何故泣いているのか分からないが、涙は止まらない。

そのとき、私のすぐ横に気配がした。驚いて横を見ると、そこには人影が立っている。

「!」

立っている人の顔を見上げると、それは思いがけない人物だった。

「……三上先生!?」

一体どこから入ったのか、今まで何処に居たのか、訊きたいことは山程あるのに、久しぶりに三上先生の姿を見た私はそれだけで胸が一杯になってしまい、何も言うことが出来なかった。
三上先生はただ私を見下ろしている。その表情は哀しげだった。

「名前」
「先生……?」
「ごめん。君には心配を掛けさせてしまったね。一週間で帰ると手紙には書いたのに」

暗闇で顔がはっきり見えず本当に三上先生なのかと少し訝っていたが、手紙の内容を知っていることからして、どうやら本当に先生のようだった。

「先生……本当に、三上先生なの?」
「ああ、私だ」

三上先生は枕元に座ると私の頬に触れた。手の感触はたしかにあり、温もりも感じられた。

「……良かった、先生。もう……心配したんですから」

私がそう言っても、三上先生は哀しい笑顔を浮かべている。

「ツカサはどうしたんです、先生?」
「……ツカサは、遠いところへ行ってしまった」
「……遠いって、何処へ?」
「生きているよ。ただ、こことは別の場所で生きている」
「……?」

三上先生の言葉を理解し兼ねていると、先生は私の頭に手を置く。

「大丈夫だ。心配ない。今のツカサには私ではなく別の人が側に居る。私も彼女とは離れたくなかった。けれど、どうしてもそうならざるを得ない事情があったんだ」
「……一体何があったんですか?」
「余り詳しいことを話している時間は無いんだ。けれど……」

そこで三上先生は初めて嬉しそうに笑った。

「私は少女に出逢えたよ。想い出の少女にね。そして、思い出したんだ。彼女は加奈江と言う名前でね……私が幼い頃、海から流されてきたんだ。海岸に打ち上げられていたところを父と潮干狩りに来ていた私が見付けて、私の父が助けた。彼女には身寄りが無かったからそのまま家で暮らすことになったんだ。幼い私は彼女を姉のように慕い、いつも彼女の側で過ごしていた。思い出した今は、どうして彼女……お姉ちゃんのことをすっかり忘れていたのかと思う程……あの頃は父とお姉ちゃんと私、三人で仲良く暮らしていたんだ」

そう話す三上先生はとても嬉しそうだった。

「良かったですね……三上先生」

私は心からそう思っていた。今の三上先生には悲しみから生まれる孤独の影が消えている。少女の記憶に苦しみ、陰鬱とした先生の心情を知っていた私も、その憂いの無い表情を見て安堵した。

「ただ……私はお姉ちゃんに逢う代わりに、命を失ってしまった」
「命……?」
「もう、君の側に居ることはできない。君に触れることさえも」
「三上先生?」
「私は……もうこの世の者ではないんだ」

三上先生はさっきから何を言っているのか、私には理解出来なかった。何と答えていいのか分からず、ただ先生の目を見詰める。先生も私をじっと見ていた。

「やっぱりこうして見ると、君はお姉ちゃんによく似ている。お姉ちゃんに逢えた今だから分かるけど、私は君がお姉ちゃんに似ているから好きになったんじゃない。お姉ちゃんは私にとって母や姉のような人……だけど、名前のことは、一人の女性として好きだ」

三上先生にそう告白された私は、まるで先生が離れて行ってしまうようなそんな気がした。

「私はいつでも名前を見守っている。きっとそう、お姉ちゃんも君のことを……」
「先生、一体何を言って……」
「いずれまた逢えるよ。名前と私は……出会うべくして出会ったのだから」

三上先生がそう言ったとき、唇に温かい風のようなものが触れた。それは一瞬のことで、次に瞬きをしたときには、もう三上先生の姿は消えていた。

「三上先生……?」

布団から出て三上先生の姿を探したが、もう何処にも先生の姿は見当たらなかった。

「先生?一体何処に……」

そのとき、突然凄まじい眠気のような感覚が襲ってきて、頭がぼんやりとして何も考えられなくなった。私の意識は遠退いて、そのまま深い闇に落ちていった。

―――――

遠くから聞こえる波の音が心臓の鼓動のようだった。その音に共鳴するように、私は目を覚ます。

「…………」

……私、あのまま眠ってしまったんだ。
否、眠ったというよりは気絶に近かったのかも知れない。起きたとき、私は布団では無く畳の上に寝転がっている状態だった。
雨戸を開けると外は晴れていて、昨日の豪雨と時化が嘘だったかのように海は静かに凪いでいた。

「三上先生……」

私はそのまま、暫く窓辺から海を眺め続けていた。昨日の出来事が延々と思い起こされて、何も言葉に出来ない。今はただ、こうして海を見詰めていたかった。

その後、三上先生は二度と私の前に現れなかった。先生の失踪を報道番組では人気作家を乗せた船の失踪事件として何度か話題に取り上げていたが、時が経つと次第にそれらも薄れていった。
一方の私は、三上先生が行方不明になった真実が分かっていった。そして、あの夜私の元を訪れた先生は既に死んでいた――幽霊だったのだと思う。

三上先生が何故、死んでしまったのかは分からない。船の転覆で事故死した可能性が高いけれど、もし先生が生きて夜闇島に辿り着いていたとしたら、想い出の少女の面影を追って島で自殺したのではないかとも思えた。

だからもしかすると夜見島に行けば三上先生が見つかるかも知れないと考えたこともあったが、夜見島付近は事故現場として警察の包囲網が貼られているので、暫く近付くことは難しいだろう。捜索は難航しているようで、夜見島に近付こうとすると相変わらず天候が荒れたり、頭痛がするなど体の不調を訴える捜査員が続出しているらしい。きっと夜見島は、何かしらあの島に縁のある人しか辿り着けない場所なのだと私は思う。

そして今頃、三上先生は赤い海の底で少女と安らかな眠りに着いているのだろう。最後に見た先生の幸せそうな笑顔は、今でも私の脳裏に焼き付いている。

あの不思議な夜を過ぎてから、何だか私は体の調子が変わった。やけに陽の光が眩しく感じられ、晴れた日に外に出られなくなった。ただ、これが病気やストレスなどが原因で無いことは、私には解っていた。

―――――

――深夜。
必要な物を全て旅行用鞄に入れ終えた私は、部屋を出る前に扉の前で立ち止まり、部屋を見渡した。

この部屋は、三上先生と過ごした思い出の場所。
けれど三上先生は、もうここに来ることは無い。
そして、私ももう戻らないだろう。

私は静かに扉を締めると、そのまま玄関へ向かった。
玄関脇に鞄を置いて靴を履く。そして最後に、私は鞄から一冊の本を取り出す。それは「人魚の涙」だった。

「三上先生……」

今はもう全て過ぎ去った夢のようだ。そして未だに現実を受け止め切れない自分が居る。
けれど、いずれはあの不思議な出来事を受け容れられるようになりたい。
そして、それらを踏まえた上で、私はこれからの自分自身の生き方を見付けなければならない。

「……加奈江お姉ちゃん、これからはずっと、三上先生の側に居てあげてね」

私は「人魚の涙」の装丁を愛おしむよう撫でると、旅行用鞄に仕舞い直す。

「……おやすみなさい、三上先生」

私はそう呟くと、立ち上がり玄関の扉を開けた。
腕時計を見ると、時刻は午前二時を回っていた。往路には自分以外、誰も歩いていない。鳥の鳴き声さえしない静かな夜だった。
空を見上げると、暗い夜道を満月の光が照らしている。私にはそれが悲愴な輝きに見えた。
まるで、これからの私の途を示すかのように。

―――――

(私達は、ずっと前から繋がっていた)

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