Black and White Boundary1

白く無機質な空間にその少女は眠っていた。純白の、ある意味神聖で清潔的な空間に反して、彼女の四肢に巻き付けられた金属の枷の無機質さ。心ある者がこうしてベッド上に拘束された彼女を見れば、その異様な光景に憐憫を催したり、或いは憤慨を覚えるに違いない。しかしこの研究所にそういった感情を持つ人間は恐ろしいほど皆無である。

ウェスカーはベッドの枕元まで歩を進め、そこに佇んだ。ベッド上に据え付けてあるプレートには彼女の名前がこれまた無機質なワープロ文字で記されている。その名は名前。
名前は新ウイルスの被験体としてここに連れられて来た。その証拠に彼女の右腕には被験体に割り振られるコード番号が付いたブレスレットが巻き付けられている。だが、まだウイルスを投与されてはいない。

そもそも何故名前はここに連れられて来たのか。理由は愚かしいほど単純である。私の同僚であるウイリアム・バーキンが「アンブレラ最年少の天才」という称号をアレクシアに奪われたからという、何ともくだらないものだ。バーキンが嫉妬心から狂乱して実験体を再生不能になるまで解剖したり、功を焦ってB.O.Wの実験データを採るために多くの実験体を使用したことで、世界中から集めてきた多くの「資源」を失った―というのが一番の原因だった。

それらを確保するために研究機関が目を付けたのが刑務所に収監されている犯罪者や孤児院の子ども―つまり社会からある程度隔絶されている人間がターゲットになった訳で、そうした者に何かあっても公に騒がれる可能性は低いと上層部が判断したことにより、計画は実行に移されることになった。仮にこの事実が関係者以外の第三者に気付かれたとしても、全ては我々の手によって闇に葬られる。政府もアンブレラと裏で手を結んでいる以上、我々が行っていることに目を瞑らざるを得ないのだから。

彼女―名前は孤児院で暮らす普通の少女だった。ある日、彼女の暮らす孤児院を研究員達が訪ねるまでは。
孤児院にはもちろん沢山の少年、少女が暮らしていたが、何故名前だけが選ばれたのか。それは簡潔に言うと、名前はアンブレラ創立者の一人、スペンサー卿に気に入られたからだ。

孤児院に居た頃から名前が優秀であることは孤児院の院長も十分承知していた。子どもを欲しがる里親を装って研究員が名前について尋ねると、院長は「あの子は子どものときから賢い子でね。ここの子達は名前を姉のように慕って尊敬していますよ」と自慢げに話していたらしい。

実際、孤児院での学習授業を装って研究員がこっそり彼女のIQを計るテストを受けさせてみたが、結果彼女はIQ200という驚異的な数値を叩き出した。そのことに大いに満足した研究員達は迷うことなく名前を引き取る契約を結んだ。
しかし勘が良いのか、何か悪い予感を感じ取った名前は研究員に抵抗したらしい。どうするべきか渋った研究員は仕方なく、こっそり睡眠薬を飲ませて名前を強引に連行してきたという訳だ。

だが研究所に連れて来たは良いが、睡眠薬が切れて目覚めると名前は甚だしく暴れた。しかし名前は「助けて、ここから出して」と命乞いをすることはなかった。代わりに吐き出される言葉は「殺してやる」という物騒な言葉だけ。他人の言うことを一切聞かずに暴れ回る彼女はいつしか研究員の間で『狂犬』と呼ばれるようになった。その凶暴ぶりは遂にスペンサーの耳にまで届くことになる。

件の少女は一体どんな子かとスペンサー自身が視察に来ると、名前はベッドの上から蛇のような目でスペンサーを睨み、乱暴に枕を投げ付けて凄まじい暴言を吐き散らした。その様子を見ていた研究員達はこれはもう駄目だと思ったのだが、スペンサーだけはその狂気じみた態度と強い視線の中に、何者にも媚びず己の身は己で守るという確固たる決意を見た。そして、それは精神が高貴、逞しい人間であることの証だと。幸か不幸か、名前はまさにスペンサーにとって未来を生きるに相応しい人格像を具えていたということだ。

こうして名前は処分されるどころか益々重要な被験体として研究所に隔離されることになった。だが今でも名前が暴れることに変わりはない。現在は打開策として薬が切れる頃を見計らって、研究員達が交代で名前に睡眠剤を投与するのが決まりになっている。

そして今、私の手の内には注射器がある。中身は勿論、睡眠剤。
薬を投与する時間は疾うに過ぎていた。しかし私は注射器を持つ手を動かさず名前のベッドの側にあるイスに座り、そのまま暫く様子を見ていた。

十五分ほど経った頃、眠っていた名前の瞼がピクッと動き、薄らとその目が開かれる。意識を取り戻した名前は首だけを動かし、辺りの様子を窺っていた。視界に私の姿が目に入ると、はっと息を呑んで途端に身構えるような目付きになる。

「……あなた、誰?」

寝覚めの所為なのか薬の所為なのかその声は弱々しかったが、どことなく芯の強さを感じさせる響きがあった。

「……ねえ、聞いてる?あなた、ここの研究員でしょ?」

私が何も答えないでいると、名前は更に問い掛けてきたので、思わず笑ってしまう。

「何がおかしいのよ」
「いや、失礼。相変わらず威勢の良い娘だと思ってな」

からかうように言ったがそれは私の本音だった。ある日突然見ず知らずの場所に連行され薬を投与されて眠らされ、目覚めたときにはまるで悪魔の番人が如く白衣を着た研究員が自分の側に座っている。そんな状況に物怖じせずにこうして話し掛けてくる名前の性根の逞しさには驚かされる。

「ああ……薬を打ちに来たのね?」

名前は私が手に持っている注射器を見て不快な表情を浮かべた。

「全くしつこいのね。あなた達の異常さには恐怖を通り越して呆れ返るわ」

淡々と言って吐き捨てる名前の憂鬱で苛立たしそうな表情を私は見詰める。
スペンサーが言うように、若年にして肝の据わった態度といい、どこか彼女はただならぬ雰囲気を感じさせる。太々しいのは彼女がまだ世間知らずで怖いもの知らずなだけかもしれないが、それにしても怯えて命乞いする人間よりかえって清々しいほどの態度だ。

スペンサーの思想は今の私にはよく理解できないのだが、私も名前のような人間こそ新人類に相応しいという考えにおいては、スペンサーに同意する。だからこそ思うときがある。このまま名前にウィルスが投与されて、もし彼女が自分と同じウィルスに適合する体質であった場合、私は彼女のような人間と共に新人類として新たな世を築いていけるのではないかと。
しかし、私は自分の意思でウィルスを受け容れた。だが、名前はそうではない。そのことだけが、説明し難い不愉快な感覚を覚えさせる。

「名前」
「何?」
「……勘の良い君のことだから知っているかもしれないが」

何のことかと言うように名前は首を傾げる。

「君には明日、ここで開発したウィルスが投与されることになっている」

私の言葉を聞いた瞬間名前の表情がさっと強張った。

「冗談じゃ、ないわよ!」

名前は怒りに震える手で頭の下にあった枕を掴み、それをこちらへ乱暴に投げ付けた。名前は枷を付けられているので、思うほど力を出すことはできない。私は容易く枕を受け取って、そのままベッドの脇に置いた。名前は怒りに興奮しきってゼエゼエと荒い息を吐きながら、鬼のような形相でこちらを睨み付けてくる。

「私に変なことしたら……アンタたち全員殺してやる」

髪を振り乱しながら言う彼女の姿には鬼気迫るものがあった。今の名前を見たら、他の研究員であれば恐ろしくて彼女の腕に注射を打つことさえ出来ないのではないか。

「来るな!」

私がイスから立ち上がると、名前は警戒して腕や足をばたつかせるが、その抵抗は虚しくも四肢に巻き付けられている枷によって抑え付けられている。名前は咄嗟に手近にあった分厚い本を掴んで投げ付けて来たが、それは私の横顔を掠めただけだった。ゴン、と背後で床に本がぶつかる無機質な音がする。

「何よ!何す……」

名前の枕元に立つと、私は名前の口を手で塞いだ。

「大声を出すな」

名前は抵抗しようと、必死に私の手を引き剥がそうとする。

「そこまで拒むなら……ここから出してやる」

その言葉を聞いた瞬間名前の動きが止まる。

「大人しくするなら、この手を放してやる」

約束できるかと問えば名前は静かに頷いた。手を放すと名前は躊躇うような瞳を私に向ける。

「迷っている時間はない。実験は明日だ。まず、お前の体を拘束しているそれを取ってやる」

私は名前の体に付けられた枷の鍵をポケットから取り出し、慎重に枷を外していく。その間名前は先程までの態度が嘘であったかのように大人しくしていた。
枷を外し終えると、名前の肌には痛々しい拘束の痕が浮かんでいた。私の視線を感じたのか、名前は痕の付いた自分の腕を手で隠す。

「見た目は酷いけど、もう慣れてるから痛くも何ともないの。それより早く私をここから出して」
「……分かった」

女はこういうとき肌に傷を付けただのと喧しく騒ぐものだが、文句一つ言わない名前の態度には感心する。枷さえ外してしまえば名前の身は自由だ。後はどのように研究所から逃がすか。認証キーの付いた扉は私が開ければ良い。問題は研究所のありとあらゆる場所に設置されている監視カメラの目をどのように摺り抜けるかだった。

そのとき、不意に部屋の脇に置いてある移動式のベッドに目が入った。名前に少し待つよう言い置いて、物置場から黒いビニール袋を持ってきてすぐ部屋に戻る。そのビニール袋を開いて移動式ベッドの上に置くと名前を手招いた。恐る恐る近付いて来る名前に囁く。

「この袋の中に入るんだ」

怪訝そうな顔を浮かべている名前に説明を続ける。

「君には死体を装ってもらう。そうでなければここから抜け出すことは出来ない」
「……そう、分かったわ」

物分かりが早いのかそういう性格なのか、名前は私の案をすんなり受け容れてベッドの上に乗りビニール袋に足を入れていく。頭まですっぽりビニール袋の中に入ると、呼吸できるだけの空気が入るように軽く袋を結んだ。私は名前を乗せた移動式ベッドの手摺りに手をかけるとそのままベッドを押して部屋を出た。


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