羽生蛇村から帰宅して淳が私室に籠っていると、暫くして扉の向こうから名前の声がした。
「淳様、入っても宜しいですか?」
「……ああ」
淳の返事を聞いた名前は扉を開けて部屋に入ってくる。淳は今まで机に肘を付いてぼんやり考え事をしていたのだが、咄嗟に側にあった本を開き読書をする振りをした。
「まあ、淳様が読書だなんて珍しいですね」
「……そうか?まあ、いつも俺はお前が居ないときに色々読んでいるんだよ」
近付いて来る名前の方を見ず淳が淡々と言い返すと、その異変を感じ取った名前は淳の顔を覗く。
「淳様?お顔の色が優れないようですが……お加減でも悪いのですか?」
「別に……どこも悪くないさ」
「それにしては浮かない顔をされています」
熱があるとでも思ったのか名前が淳の額に手を伸ばそうとすると淳はパン、とその手を払い退けた。
「……淳様?」
今まで見たこともない淳の態度に名前は驚いた顔をする。
「俺は神代の婿になるんだ。今までみたいに気安く話し掛けるんじゃない」
淳の冷たい言葉に名前はあからさまに戸惑っていた。その姿を見た淳も、内心胸が抉られるような気持ちだった。
「も、申し訳ありません淳様……」
名前は本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「……幼い頃からのよしみで許してやるが、今後は気を付けろ」
用がないならさっさと出て行けと言って淳が本に目を戻すと、名前は扉を閉めて部屋を出た。扉を閉める直前にふと見た名前の悲しそうな顔は、淳の心に痛いほど焼き付いた。
だが、名前を自分から遠ざけるにはこうするしかないと淳は思った。名前の顔を見れば見るほど辛くなるのであれば、一層顔を合わせなければ良いのだと。
それから淳は名前と必要最低限の関わりしか持たなくなった。以前のように他愛ないことをすることもなくなった。
そして亜矢子との見合いから数か月後、淳は正式に神代の婿として羽生蛇村へ行くことになった。
婿入りが決まってからも今までのように淳は名前を遠避けた。このまま婿入りの日まで名前と話さなくても良い。それほどまでに淳の覚悟は決まっていた。ただ、胸のどこかにあるもの寂しい違和感はいつまでも消えることはなかった。
―――――
神代に婿入りする前日、俺の足は自然に、ふらりと縁側に向かっていた。
ここは子どものときに俺がよく一人で泣いていた場所。そして名前と過ごした場所。
瞳を閉じれば昨日のことのように思い返される幼い頃の日々。
「…………」
ここで暮らす日々は、思えば何と短い時間であったことだろう。そして名前と過ごす日々は、俺の人生で最も楽しく、美しい時間だった。
「……淳様」
「!」
突然背後から声がして振り返ると、そこには名前が居た。
「……名前?」
名前は少し俯いて俺の態度を窺うようにして近付いてくる。
「……どうした、俺に何か用か?」
「いえ、その……淳様に一言お祝いを申し上げたくて」
名前がそう言っておずおずと俺の隣に立つ。
「この度は、ご婚約おめでとうございます」
「……ああ。今まで世話になったな」
「……私は幼い頃からずっと淳様のことを見守っておりました。その淳様が明日遠くへ行ってしまわれるのだと思うと、嬉しい半面、やはり寂しいものですね…」
名前は遠い日々を思い返すような目をして夕陽を眺めている。俺は名前の、その美しい横顔を見詰めていた。
「そんなことを言うんじゃない。父と母に聞かれたらどうする」
俺がいかにも厳しい口調で言うと、名前はふふと笑う。
「何がおかしい」
「いいえ……何だか淳様らしくなくて」
「……俺らしくない?」
「ええ……幼い頃の淳様は泣いてばかりでいらっしゃったのに、今ではこんなに立派になられたのですから……時間はあっという間ですね」
名前は笑ったことを詫びると訥々と話し始める。
「私をここに召し使えてくださった旦那様と奥様には、返し切れない程の恩があります。何より可愛い淳様のお世話をできることが幸せでございました」
「……いつもいつも、俺を可愛いと言うのは止めろ」
俺がそう言って名前を睨んでも、名前はただ穏やかな瞳で俺を見ていた。
「私にとって……この世で一番大切なのは淳様です」
その言葉に、思わず俺は名前の目を見詰める。
名前は温かく、穏やかに笑っている。もう何日も見ていなかったその笑顔。夕陽に照らされた名前の優しい色の目……その瞳に俺が映っている。
その懐かしく優しい瞳の色に、ずっと胸底に錘を提げ、沈めてきた劣情が呆気ないほどどっと溢れかえる。
「……名前」
「何ですか?」
「今、名前は俺のことを一番大切だと言ったが……それは、俺も同じだ」
「淳様……?」
俺は名前の頬に触れ、そのまま逃がさぬよう名前を壁に押し付ける。
「……名前……お前は本当は気付いているんじゃないのか?俺の……」
「淳様……一体、何を……」
「俺の気持ちに、気付いているんだろう?」
「!」
名前は何か言おうとしたが、その言葉を遮るよう名前の唇を自分のそれで塞いだ。
「ずっと好きだった……子どものときからずっと……」
間近にある名前の瞳を見詰めると、俺の真剣さを感じ取ったのか、名前の顔は目に見えて紅潮した。
「名前……お前にとって俺は……ただの幼い子どものままなのか?一人の男として見てはくれないのか?」
一度暴れ出した想いは、止まることなく口から滑り出ていった。
「淳様……お止めください……一体どうされて……」
「誤魔化すな。本当の気持ちを言ってくれ。お前にとって俺は一体何なんだ!?」
抑え切れなくなった想いをぶつけるように問い質すと、恥じらっているのか困惑しているのか、名前の瞳から涙が零れ落ちる。
「私……私は……」
「…………」
「私は淳様のお側に居られることが、ただ幸せでした……月日が経つと淳様は本当に立派な、素敵な男性になられて……」
「……名前」
「淳様と私は……こうして廻り合ったからには縁があるのでしょう……ですが、それは主人と召使いという縁であって男女の縁ではないと、私は自分に言い聞かせておりました……」
「……名前」
「この気持ちが異性への愛なのか、私には分かりません……でも、私は……淳様を愛して……っ」
その先の言葉はもう要らない。俺はもう一度名前の唇を塞いだ。
名前が俺を愛していると言った言葉が、いつまでも耳の奥で響いていた。
どれだけの時間が経っただろう。だが、そんなことはどうでも良かった。今はこの二人だけの時に酔い痴れていたかった。
やがて、陽が落ちても俺は名前を離すことはしなかった。闇夜に浮かぶその、今まで触れたかった清らかで滑らかな白い膚に、隙間なく赤い花を咲かせる。
異様に夜が長く感じられた。長い長い夜だった。きっと人ならぬものが時を止めてくれているのだろうと狂った錯覚さえ抱いて、俺はただ名前を滅茶苦茶に愛した。
名前と過ごす最後の美しい時間―罪深い夜を月だけが見ていた。
―――――
眩しい朝焼けの光で、微睡みから現実に帰る。
「…………」
縁側の側にある離れの一室に、俺と名前は体を寄せ合って眠っていた。
縁側から差し込む朝の光は、夜気を洗い流す清浄さと共に、俺に絶望を与えた。
遂に羽生蛇村へ行く日が来たのだ。
もう名前と逢うこともないのだろう。
俺が体を動かしたことで名前も目が覚めたようで、小さな唸り声を上げる。
「名前……」
俺が名前の手を握ると、名前は寝覚めの朧気な目で俺を見る。
「淳様……」
「名前……お別れだ……」
「行って、しまわれるのですね……」
名前の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。俺は頬を伝うその涙に口付けた。
「俺は神代に行っても、名前のことを忘れない」
「淳様……」
出発の時が来るまで、俺はいつまでも名前を抱き締めていた。
陽が空高く昇り、地上を照らし始める。いつになく冴え渡る青空は、淳にとって皮肉で美しい別れの餞だった。
淳は名前に着替えを手伝ってもらい正装すると、両親へ別れの挨拶をする為居間を訪れた。父母は淳の婿入りを喜ぶというより、相変わらず「神代の婿としての務めを果たせ」というようなことを言ってきただけだった。
淳は今まで育てていただいた感謝として両親に頭を下げ、婿としての務めを果たすと告げて居間を後にした。もう、これで両親に会うこともない。
淳は廊下へ出て玄関へ向かう。そうして玄関で靴を履いていると、背後から足音がした。淳が振り返ると、そこには名前が居た。
「淳様」
「……名前」
淳が靴を履き終え立ち上がると、名前は側に置いてあった淳の鞄を差し出す。
「行ってらっしゃいませ、淳様」
名前はいつもと変わらない笑顔でそう言った。敢えて余計なことも、仰々しいことも言わないその健気な態度に、どれだけの切ない想いが籠められているかを思うと、淳は思わず目頭が熱くなった。
いつもと何も変わらない見送りの言葉。でもこれが最後の名前の見送り。
ああ、これで最後。
「……ああ、行って来る」
淳は鞄を受け取って玄関扉を開けた。玄関先には既に羽生蛇村へ向かう車が待っていた。だが淳は玄関扉を閉める前に、居間に居る両親に気付かれぬよう名前に手招きする。名前は怪訝な表情で淳を窺っていたが、靴を履いて淳の元へ向かう。
「一つだけ、名前に頼みたいことがある」
淳はそう言ってポケットに入っていたものを取り出すと、それを名前に手渡す。名前が手の中にあるものを見ると、ロケットの付いたネックレスが朝陽を受けてキラリと輝く。
名前がロケットを開くと、そこには幼い頃の淳と名前が二人仲良く写っている写真が収められていた。
「俺がいつも持ち歩いていたんだが……俺よりもお前に持っていてほしい」
「淳様……」
「俺の大切なものだ……だが、俺にはお前にもらった沢山の思い出がある。それだけで充分だ」
いずれにしろ、神代に入籍するときは仕来りとして旧家の物を一切持って行ってはいけないことになっている。婿が使う物は神代家で全て用意されることになっていた。
「俺が居なくなっても、それを見て……時々は俺のことを思い出してくれないか」
「私が淳様のことを忘れることはありません……いつまでも」
健気に自分を見上げて来る名前のその瞳に、淳は胸が高鳴る。淳は名前の髪を耳に掛けるとそっと囁いた。
「俺は……本当にお前のことが好きだった、名前」
淳は名前の耳に口付けると、「お前は幸せにな」と別れを告げ、車に乗り込んだ。車窓を開けると、名前はいつもと変わらない優しい笑顔で俺を見ていた。
きっと、それは名前の精一杯の笑顔。そして俺を乗せたこの車が見えなくなると同時に、お前は頽れ涙を流すのだろう。
運転手がアクセルを踏む。名前はあっという間に、景色と同化するよう後方へ流れていく。
後部座席から見えるバックミラーを覗く。そこには玄関から外へ出てこちらに頭を下げ続ける名前の姿が映っていた。
淳はその姿を目に焼き付けるよう瞼を落とす。車窓から差し込む朝陽が、彼の頬に流れる悲しみを悲愴に輝かせていた。
―――――
(これが俺の選んだ道。だから何も後悔は、ない……)