昨日のお返しだよ2

子どもの頃、私は夏になるとよく眞魚川で遊んでいた。思えば初めて淳に出逢ったのも、この眞魚川だった。
ある日、いつものように小石を水面に投げたり、魚を追い掛けたりして遊んでいると、どこかから声がした。

「おまえ、いつもこの川であそんでいるよな」
「だれ?」

眞魚川に架かる橋の上に、見たこともない男の子が立っていた。

「ふん、しつれいなやつだな。人に名前をきくときは、自分から名のるものだろう?」
「……わたしは名前」
「ふうん。おれは神代淳」

神代、と聞いて私は最近神代様の家に婿養子がやって来たと村の人たちが言っていた事を思い出した。「むこようしって何?」と私が両親に尋ねると「いずれこの村の偉い人になる男の子だよ」と聞かされた憶えがある。そして、それはきっとこの男の子の事だろうと私は思った。

淳はそのまま橋を渡って、私の居る川原まで下りて来た。

「ねえ、何で私がいつもこの川であそんでいるのを知っているの?」

私に尋ねられた淳は、何故か突然焦り出した。

「そっ、それは……さんぽをしていたらいつもおまえが川であそんでいるのが見えたからだよ。べつに、おまえのことを見ていたわけじゃないぞ!」

必死に話す淳の顔は真っ赤になっていた。

「どうしたの、かおが赤いよ?」
「なっ、何でもない!夏だからあついんだよ!」

淳は真っ赤になった顔を手で仰ぎながら話し出す。

「そんなことより、おまえ、さっき川に石をなげてただろう?」
「うん」
「ちょっともう一回やってみろ」
「?、いいよ」

私は川原の小石を拾って川面に向かって石を投げた。私が投げた石はパチャン、パチャンと二回くらい川面を飛び跳ねてそのまま沈んだ。

「おまえ、石のなげかたへたくそだな」
「……む、じゃあやってみてよ」

私がむっとして淳に石を渡すと、淳はそれを受け取った。

「いいか。よく見ておけよ」

淳は自信満々に言うと、小石を川面に向かって投げた。

パチャン、パチャン、パチャン、パチャン……

淳の投げた石は七、八回ほど川面を飛び跳ねて沈んだ。

「すごい!」
「ふふん、こんなもんさ」

淳は得意げな顔をしてふんぞり返った。

「でもね、私のおとうさんは二十回くらい飛ばせるよ」
「な、何!」

得意満面だった淳の顔が、あっという間に驚きと悔しさの入り混じったものに変わる。淳には悪いけれど、そのときの彼の表情は今思い出しても面白い。

「そんなにくやしいの?」
「おれは何でもいちばんじゃないと気がすまないんだ!」
「へえ。わがままな王子さまだね」
「わがままはよけいだ!」

プライドを傷付けられたことで動揺しているのか、淳はきっと鋭い目で私の方を見た。

「明日もここにいろ!おれもここに来るから!」

淳は私の返事も聞かずにさっさと帰ってしまった。

それからも私と淳は一緒に過ごす事が度々あったが、幼い頃から淳の身勝手さは人一倍凄いものだった。だが彼と過ごす内に、その身勝手さの中に哀しさのようなものが垣間見える気がした。
淳の横暴な振る舞いは、まるでそうでもしていないと自分という存在を誇示できないような、極端な自己主張のように見える事があった。
彼は名家に生まれ何不自由なく育ったけれど、それと同時に権力では得られないものに飢えている気がした。淳は虚無感や孤独を心に抱えているのかもしれない。とはいえ一般家庭に生まれ育った私にはその苦痛を察する事はできても、本当に解ってあげる事はできなかった。

しかし複雑な心情を抱えているからと言って、勝手な事をして良い訳がない。だから私は未だに身勝手な淳の事が好きではない。けれど、嫌いとも言い切れない。
幼い頃から続いているこの腐れ縁のような関係は何なのだろう。それに答えは出せないけれど、私は淳に出逢って気付かされた事がある。
人のことを好きだとか嫌いだとか、そうやって白と黒でしか見分けられない自分だって、十分身勝手じゃないか、と。

―――――

闇の底から光に吸い込まれていくような感覚と共に、目を開く。

私は、死んだの―?

途端、ツンとした鼻の痛みと息苦しさが襲い掛かり、私は咳き込んだ。

「ゲホッ、ゲホッ……!」

気道に詰まっていたものを吐き出すと、それは赤い液体だった。一瞬血を吐いたのかと思ったが、よく見ると血液ではなく眞魚川の赤い水だった。

「私……生きているんだ……」

腕を抓ってみると痛かった。これは夢じゃない。蛇ノ首谷の断崖から飛び降りた私は、眞魚川の流れに乗ってここまで流されてきたようだ。辺りを見回してみるが、見たことのない場所だった。上粗戸に似ているが、どこか雰囲気が違う。

ふと上を見上げると、遠くの方にベニヤ板が幾つも重ね合わせて作られた謎の建築物が建てられていた。
あんなもの、いつ村に建てられたのか。あのガラクタの城のようなものは一体何?

それにしても辺りは異様に暗く、人の気配もない。ここは一体何なのか。村は本当に一体、どうなってしまったのか。

座っていた私は立ち上がって川の水を含んだ服を絞ると、恭也を捜しながら眞魚川に沿って歩き始める。そうして暫く歩き続けていると、視界の先によく目立つモスグリーンの色が映った。

「あれは……」

暗く見通しの悪い前方に目を凝らすと、二、三メートルほど先に恭也が倒れていた。

「恭也!!」

私は恭也の側に駆け寄り、体を揺する。

「恭也、しっかりして!!」
「……うっ」

恭也を揺り起こすとその眉間に皺が寄り、ゆっくりと目が開かれる。意識を取り戻した恭也は軽く咳払い、赤い水を吐き出した。

「……良かった、生きていたのね」
「その声は……どこかで、」

恭也の焦点の定まらない瞳が私を捉える。

「君は……」
「私だよ。分かる?」
「何で、名前がこんなところに……?」
「私、この村の出身で、偶々村に帰って来ていたの」

私は起き上がろうとする恭也の体を支える。

「へえ……こんな偶然って、あるもんなんだな……」
「そんなことより、傷を見せて」

銃弾で撃たれたのだから、相当酷い怪我をしているだろう。恭也は少し躊躇いながらも、羽織っているモスグリーンの半袖シャツを翻した。半袖シャツの下に着ている白シャツには撃たれた部分から出た血液が大量に染み込んでいた。こんな重傷を負って崖から転落し、それでもこうして生きているなんて奇跡だ。

しかしよく見てみると、銃弾で撃ち抜かれ、破れたシャツの下の肌には銃創がなかった。

「……?」

おかしい。明らかに心臓の辺りを撃たれていた筈なのに……。
どういうこと……?

ふと、恭也を撃ったときの淳の謎めいた言葉が思い返された。

『あの余所者は儀式の邪魔をしたんだ。それに……あいつは死なないさ』

「名前!!」

そのとき、突然背後から声がした。振り返ると、誰かがこちらに走って来るのが見える。

「淳……?」

見覚えのある姿がどんどんこちらに向かって近付いてくる。それは、やはり淳だった。

「名前……!!」

淳は私の姿を見止めた途端、飛び掛かるように抱き着いて来た。

「なっ、何……!?」

幾ら淳とは言え、さっき私に銃を向けていた男だ。もしかして私を殺しにここまで追って来たのかと思い、私はぞっとした。

「お前……っ……俺がどれだけ心配したと……」

だが、私の疑念は淳の言葉によって掻き消された。きつく抱き寄せてくる淳の声音は萎れており、体は震えていた。

「ご、ごめん、淳……」

目の前の淳を見ていたら、思わずそう言っていた。こんな淳の態度は今まで見たことがなかったので、私は動揺した。

「謝っただけで、許されると思っているのか……」
「何を許さないのよ……?」
「俺にここまで心配を掛けさせるとは!本当に、お前という女は……!!」
「何言ってるの……そもそも淳が恭也を撃ったのが原因でしょう?」

私は淳を突き飛ばそうとしたが、淳はそれを拒んだ。

「ちょっと、痛いよ淳……!」

寧ろ強くしがみ付いて来る淳の爪が服の上から喰い込んで来る。

「罰だ。これくらい我慢しろ」

淳のどこまでも傲慢な態度に愈々堪忍袋の緒が切れかかったとき、事の次第を見守っていた恭也が口を開いた。

「おい、名前が嫌がっているじゃないか。止めろよ」

恭也が間に割って入り仲裁すると、淳は忌々しげな目付きで恭也を睨み据え、ボソリと呟く。

「……お前、今名前の名を呼んだな?」
「ああ。それがどうした?」

きっぱりと言い返す恭也を見て、淳は憎々しげに眉間に皺を寄せる。

「名前の名を呼んで良い男は俺だけだ」
「……何を訳の分からないことを言ってるんだ?」

意味不明な言葉を話し始める淳に、恭也と私は怪訝な顔を向けた。

「名前は俺のものだ。名前と同級生らしいが、それくらいの関係で気安く話し掛けるな!」
「私がいつ淳のものになったのよ!」
「初めて逢ったときからだ。俺がそう決めた」

淳の言葉を聞いた私は呆然としてしまった。

「いずれこの村のものは、全て俺のものになる。土地も、人も、何もかも全て……」

淳は獲物に狙いを定めたような、真っ直ぐな視線で私を捉える。

「俺は政略結婚で神代亜矢子と結婚するが、神代当主の座を手に入れたとき、お前を俺のものにするとずっと決めていた」
「……は!?何言ってるの?」

淳は私の言葉を無視して、滔々と話を続ける。

「儀式を成功させなければ、俺の神代家次代当主の座も危うくなる。それに神代の人間としても、儀式が失敗に終わるなんてことは恥辱でしかない」
「……つまり、淳はこの村の全てを手に入れるために当主の座を狙っているってこと?」
「俺は気に入ったものは手に入れないと気が済まない性質(たち)でね」

淳が次代当主を継ごうとしているのは、村を治めることだけが目的ではないと何となく察していた。そういうことも含めて嫌な予感がしていた私は敢えて村を離れていたのだが、まさかここまで大っぴらに開き直るとは思わなかった。そして自分の願望ばかり並べ立てる、その身勝手さにも程があると思った。

「最低……」
「……何だって?」
「まるで駄々を捏ねる子どもじゃない」

子ども扱いされた淳は私を睨みつけるが、心の底から軽蔑する私の視線を受けた途端、その顔に狼狽えた色が浮かぶ。

「あれも欲しいこれも欲しいって、オモチャを強請る子どもね」
「っ……違う、俺は……」
「何も聞きたくない!!」

悪い予感ほどよく当たるというが、こればかりは当たっていて欲しくなかった。さっき淳が必死になって私を心配した姿に少しは誠意を感じたのに、もしかしたらあれさえも自分の欲のためにしたことだったのではと思えてしまう。

ああ、淳がこの村の当主にでもなった暁には、自分の立場を利用して分別なく独裁者のように振る舞うのではないか。私は村民として村の行く末を憂いた。

「……淳、美耶子はどうしたの?」

淳は途端に、ばつが悪そうな表情になる。

「お前が眞魚川を飛び降りた後、川を覗いている内に逃げられた……」

美耶子が取り敢えず淳に捕まっていないと分かって、少し安堵した。しかし、そのまま美耶子を一人きりにしておいては危ない。

恭也もこうして生きていることが分かったので、私は美耶子を探すべく、恭也を介抱していたときに服に付いた泥を払って駆け出した。

「おい、待てよ名前!!」
「うるさい、この軟派者!!」

節操の無い男だと言われてしまった衝撃で、淳は名前を追い掛けることも出来ず、呆然とその場に立ち尽くした。固まっている淳の肩を恭也が叩く。

「お前……名前に惚れてるんだろ」
「なっ!!」
「ツンデレってやつだな、ドンマイ」
「なっ、何だお前は……黙れ!!」

淳は肩に置かれた恭也の手を振り払い、急いで名前の後を追う。淳の顔が耳まで赤くなっているのを見て、恭也は苦笑する。

「素直じゃないんだろうな、あいつ。……さて、俺も美耶子を探すとするか」

本当は名前と一緒に美耶子を探そうと思っていた恭也だが、自分が名前と淳に従いて行くと色々と面倒なことになりそうだと思ったので、別行動で美耶子を探すことにした。

―――――

私は眞魚川の岸辺に沿って、例の謎の建物へ潜入していた。恭也もあの後直ぐに、この違法建築物へ入り込んだらしい。
何故そんな事が解るのかというと、この建物の中を探索している途中、私は急に頭痛がして一瞬「キーン」と耳を劈くような音を聞いた。謎の耳鳴りが起こった後に目を閉じると、映像のようなものが見えるようになり、それは意識を集中させるほど鮮明に映っていった。誰かの主観のような視点で映るその映像を見続けていると、ふいに人の声がした。それは恭也の声だった。そのとき、私はこれが夢ではなく、恭也の視点だと気付いた。

つまり他人の視界を自分の目を通して見ている――感覚としてはそういうものだ。
何故今、自分が超能力のようなことが出来ているのか分からないが、それもこの村の異常事態と何か関係があるような気がする。もちろん私も最初こそ驚いたが、段々と何があってもおかしくないと思うようになってきた私は、この状況を受け容れられるようになっていた。

「おい、名前。そんなに急いだら危ないと言っているだろう」
「美耶子を見付けるまでは悠長にしていられないでしょう」

あれから淳は私の後を追って駆け付け、それからずっと私の後ろに従いている。

「……どうして従いて来るのよ」
「お前に従いて行っているんじゃない。行き先が同じだけだ」

嘘くさい言い訳を言って、淳は私の後ろを歩き続ける。



top