闇の中で、自分の手が赤く染まって見える。貼り付いた赤いそれは次第にボタボタと指の隙間から流れ落ちる。錆びた臭いが鼻腔を掠めたとき、それが血であることに気付いた。
見慣れている筈の血の色に、私はただ嫌悪した。私の手は赤黒く染まり続け、着ている白衣にも血が染み渡っていく。
「……何だ、これは……」
そうしている内に、突然私の目の前に手術台が忽然と現れた。
その上には男が横たわっていて、生気のない虚ろな目で私を見詰めていた。
「たす、けて……くれ……」
男は苦悶の呻きを上げながら必死に手を伸ばして、血塗れの私の手を物凄い力で掴んできた。
「どうして……俺が、こんな目に……」
私は男の手を振り払おうとしたが、振り払おうとするばするほどその手は私の手に喰い込むように掴み掛かってきた。
そのとき、男に掴まれている手と反対側の手にヒヤリと冷たい感触が走り、驚いた私はそれを手から落とした。キーンと金属音を響かせて落ちたものは、手術用のメスだった。
それを見止めた途端、私の体は意思とは関係なく勝手に動き出し、落としたメスを拾い上げていた。
「やめてくれ……」
私の手の内で光っているメスを目にした男はガクガクと震え、逃れようと暴れ出す。だが男の体は手術台に拘束され、逃げることは叶わなかった。
私のメスを持つ右手は男の体の真上に掲げられる。
「やめろ……やめてくれええええ!」
男の絶叫を遮るよう、私は躊躇うことなく男の心臓にメスを突き刺していた。
肉を貫く生々しい音と共に大量の鮮血が飛び散り、私の視界を赤く染める。
苦しみに満ちた男の断末魔が私の耳を伝って、頭の中を反芻するように響き渡る。
無限に続くかと思われるようなその瞬間に目眩を覚えた次のときには、もう手術台も男の姿もなく、私の体は暗闇を滑り落ちていた。
這い上がる術は何処にもなかった。この闇はどこまで続くのか。
そう思いながらふと足下を見る。足下の闇からは無数の人間の手が伸び、助けを乞うように蠢いていた。
やがて私の体は地に落ち、そのまま無数の手に全身を捕えられ、呑み込まれるように蠢動の中へ包まれていく。
―――――
体が飛び上がるような感覚で、目が覚める。
周囲を見渡すと、そこは院長室だった。
「……夢、か」
宮田は意識を落ち着けるために目頭を押さえて深呼吸をする。悪夢の所為で心臓の鼓動が耳元で喧しく鳴り響いていた。どうやら患者のカルテを見ている途中に居眠りしてしまったらしく、机上の蛍光灯が周囲を照らしているだけで、窓の向こうは既に夜の闇に覆われていた。
時計は深夜一時を指している。カレンダーの今日の日付の欄を見ると「夜勤」と書いてあった。そう言えば今日は入院患者の見回りも自分が行う予定になっていたことを宮田は思い出す。
深夜に医者が巡回を行う病院は一般には余り例がないかも知れないが、ここは田舎の病院で慢性的に人手が足らず、院長の宮田自身が巡回に出ることも珍しくはなかった。
宮田は悪夢に魘された汗をハンカチで拭うと、机の引出から懐中電灯を取り出し部屋を出た。
宮田は懐中電灯の灯りを点けると、廊下を歩き始める。院内は窓が少ない為に、夜になれば異様に暗くなるのが常だった。
カツン、カツンと宮田の靴音だけが廊下に木霊する。
その静けさを破るような患者の話し声や逃げ出す気配もなく、どの部屋も寝静まっていた。
この階には『普通の入院患者』しか居ないのでそれほど警戒する必要はないが、万が一ということもある。
稀に下の階から「人の呻き声のようなものが聞こえる」と訴える患者が地階の様子を探ろうとして、人通りが少ない時間帯に地階の扉を開けようとするのだ。
勿論地階の扉は施錠して関係者以外は開けられないようにしているが、そういった怪しい行動を取る患者には適当な理由を話して、地階の監禁部屋の側から離れた別の部屋に移すようにしていた。
この病院には、日常と非日常が階を隔てて存在している。それを知っているのは神代家の人間と院長の宮田、そして数人の看護師だけである。もしそれ以外の人間が宮田医院の秘密を知れば、もうこの病院から生きて出ることは叶わない。
順番に病室の前を通り過ぎ、何時ものように巡回が終わりかけた頃、宮田はふと振り返る。微かではあるが、誰かが動き回るような音が聞こえたのだ。
宮田はその音に意識を向けながら音の聴こえる病室へ向かい、静かに扉を開けた。
その部屋は個室で、カーテンで遮られた一台のベッドが部屋の中央に設置されている。
宮田がベッドに近付くと、カーテンの向こうから僅かに明かりが漏れていた。
「……名前さん?」
宮田がカーテンの向こうにそう呼び掛けると、ベッドの頭側のカーテンがさっと開かれた。
「宮田先生?」
ベッドの中の患者――名前は、宮田を見ると悪戯に微笑んだ。
いや、正確には見ているのではない。彼女は視力を失っている。
宮田の気配を察して、その方向を見ているだけだった。
「まだこんな時間まで起きていたんですか。夜更かしも大概にしなさい」
宮田はそう言いながら、ベッド脇に置かれているパイプ椅子に腰掛ける。
名前はある日、折臥ノ森で倒れていたところを村の猟友会に発見された。そのときには、既に名前の目は見えていなかった。
村人達はそのまま名前を教会へ連れて行き、八尾比沙子に名前を引き渡した。
そこで八尾は名前に幾つかの質問をした。そうして名前が憶えていたのは自分の名前だけで、自分が何者で何処に住んでいたのか、何故森に居たのかさえ分からないと言った。
名前は村では見掛けない顔で彼女を知る人間も居なかった為、病的な可能性も含めて突然記憶を失い、そのまま彷徨っている内に村に迷い込んだのだろうと考えられた。
こういう場合、普通は警察署で失踪者の届出をするものだが、神代家や教会はもしかすると名前は村を彷徨っているときに暗部に関する秘密を何処かで知ったのではと懼(おそ)れて、名前を宮田医院から出さないよう宮田に命じた。
そうして名前が『記憶喪失の治療』として病院に連れられて来たとき、宮田は初めて名前に会った。その頃の宮田は養父から院長の職を引き継いだばかりだった。
「具合はどうですか?」
「いつも通り、普通ですよ」
宮田に尋ねられた名前は素直に答える。
「それは何よりです。診察しますから、こちらを向いてください」
宮田はそう言って名前の眠るベッドの片側をポンと叩く。名前は音のした方に顔を向けた。宮田は外科医なので、目の病についてあまり詳しくはない。だから容態を診るといっても、健康診断程度のことしか名前にしてやれなかった。
「目は何か変化がありませんでしたか?光を感じたりとかは?」
「全く、何も感じません」
「そうですか……では、腕を出してください」
宮田にそう言われた名前は布団から自分の腕を出して宮田の方に差し出す。
宮田は名前の腕を取り、手首に指を当てて脈拍を測る。
「……これは」
暫くして宮田が深刻な声を上げたので、名前はハッと宮田の方を向く。
「先生……何ですか?私、どこか悪いんですか?」
「……いいえ、何でもありません」
宮田は名前の腕を戻すと椅子から立ち上がる。そうして不安げな表情を浮かべている名前を見下ろすと、徐にフッと笑った。
「何をそんなに怯えた顔をしているんです?名前さんは健康そのものですよ」
「……もう、先生!」
宮田に冷やかされたと知った名前は眉間に皺を寄せて、宮田が居る方を睨み付ける。
「……お仕置きですよ。こんな時間まで起きている名前さんが悪いんです」
宮田が体を屈めて名前の耳元でそう囁くと、名前の肩が跳ねて忽ち頬が赤くなる。
反省したなら早く寝なさいと言って、宮田は名前の布団を掛け直す。
「……おやすみなさい、先生」
「ああ、おやすみ」
名前が素直に目を閉じる様子を見て、宮田は踵を返し病室を出る。
院長室に戻る道すがら、宮田は物思いに耽っていた。
名前がこの医院に来て以来、宮田は目が見えることと見えないことにはそんなに違いはないのかも知れないと思うようになっていた。
寧ろ名前の方が遥かに色々なものを見ているのではと宮田は思うことがある。彼女は視力を失っている分、心の目でものを見ている気がしていた。
それを思うと、今まで自分がこの目にしてきたことは一体何だったのだと宮田は思う。
宮田医院の跡継ぎとして育ち、物心が付いた頃から自分の目に映ったのは、暗鬱とした地下牢で得体の知れない言葉、苦悶に満ちた呻きを上げる狂人達の姿だった。子供の頃は、彼らがただ恐ろしくて仕方がなかった。
異常な環境を知りながら育った私は、次第に感情を現さなくなった。心を凍て付かせなければ、自分が狂ってしまいそうだった。
先代の求導師の葬式に参列したとき、私の子供とは思えない無感動な表情を見た人々が、あれが宮田医院の跡継ぎか、あの病院の跡目には相応しそうな子だと噂していたことも知っていた。この頃は何も知らずに生きて、無知であるが故の、偽りの幸福を享受している人々を心の何処かで軽蔑している自分がいた。
そうやって村民達を見下す反面、成長していくにつれて私の心は劣等感のようなものが胸を占めるようになっていった。
それは兄の求導師という立場と私の宮田医院長という立場から、村の人々の私に対する接し方が、兄に対するそれとは歴然と変わっていったことが一番の原因だったように思う。
片や双子の兄は村人達から崇められ、自分は宮田の跡継ぎだと畏れられ、そして心の底では蔑まれている。その現実が次第に私を追い詰めて行った。
自分は心を殺してまで何の為に生きているのか、私はその思いに縛られ、永らく苦しんできた。いっそ死んでしまえば楽になれるだろうかと考えたこともあった。
しかしそうした苦しみに苛まれている時、決まって同時に思い浮かぶのは兄の顔だった。求導師として崇敬されている自分に瓜二つの姿を思うと、不条理な悔しさのようなものが込み上げた。
所詮自分が死んでも、誰も悲しみはしない。自分の境遇を悔恨し、兄を羨むならば、死ぬのでなく生き抜くしかない。例えこの先も宮田の養子だと蔑まれ、疎まれようとも。
そう覚悟を決めた私はどんな仕事もやり遂げてきた。村にとって都合の悪い人々も容赦なく消してきた。汚れ役とも言える仕事さえやり遂げることで、兄とは違った道で自分の存在意義を見出そうとしていたのかも知れない。
しかし習慣とは恐ろしいもので、今ではそうした粛清さえも自分にとっては単なる仕事の一環として定着してしまっている。
そのことに気付く度、私は時々自分が人間でない、非道く恐ろしい魔物に取り憑かれた心地がして、一体自分はどうしてしまったのかと、呵責のようなものが自分の背を這い上がってくる嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
しかし、それでも私は今更後戻りすることも出来なければ、中途半端に職務を放棄するつもりもないと自分に言い聞かせ続け、ただひたすら自分の責務を全うし続けてきた。
―――――
途中で居眠りしてしまった所為か、妙に気が冴えていた宮田は院長室へ戻ってもそのまま朝まで起きていた。
患者のカルテの確認や諸々の雑務をしている内に陽が昇ると、宮田は部屋を出て階段を上がり、屋上の扉を開けた。
宮田はそのまま屋上に出て柵に寄り掛かり、羽生蛇村の三方を囲む山々を見渡す。都会の汚れた空気と違い、塵一つない風が吹いても宮田の心は何処かざわついていた。
宮田は昨夜見た悪夢を思い出していた。あの悪夢は今に始まったものでなく、子供の頃からよく見ていたのだが、昨日の悪夢は妙に現実感があった。
気味の悪さを吐き出すように溜息を吐くと、風がふわりと宮田の髪を撫でていく。穏やかな風に吹かれても、宮田の心の底に渦巻くものは依然拭われることはない。
それでも最近院内に籠もり切りだった宮田は幾許か新鮮な心地がして、今日の仕事を始める為に診察室へ向かった。
宮田が屋上から診察室に向かうと、そこには看護師の恩田美奈が居た。
「あ、おはようございます先生」
「美奈……こんな朝早くからどうしたんだ?」
「先生に伝えたいことがあって……さっき牧野さんがいらっしゃったんですよ」
「……牧野さんが?」
兄の名前を耳にした宮田の眉がピクッと神経質に攣り上がる。
「先生に何か大切なご用があったみたいですけど、先生の姿が見当たらなかったので、また来ると仰って帰られてしまいました」
「……そうか」
求導師からの大切な話と言えば、近々予定されている儀式のことだろう。恐らく神代から教会へ何らかの御達しがあったのだと宮田は考えた。
「牧野さんには後で私が連絡をしておくよ。君は自分の仕事に戻ってくれ」
そう言って宮田が仕事用の椅子に座ると、ふいに背後から宮田の首元を何かが包み込んだ。
「美奈……?」
それは美奈の腕だった。美奈は何も言わずにただ背後から宮田を抱き締めている。
「……今は仕事中だ」
そう言って宮田は美奈の腕を払おうとした。
しかし宮田が拒めばいつもは大人しく引き下がる美奈だったが、今日は違った。美奈は宮田から離れまいと腕に力を籠めて来たのだった。
「……何のつもりだ、美奈」
「……いきなりすみません、先生」
謝るならば最初からやらなければ良いものを、一体何を考えているのだと宮田は思ったが、取り敢えずそのまま動かずにいた。
「やっぱり先生は、牧野さんとは全然違うんですね」
宮田の耳元で美奈がそう囁いた。
「……何?」
「同じ双子なのに、まるで正反対なんですね」
「……どういう意味だ」
「牧野さんは、いつもとても優しい目をしているけれど、宮田先生は、冷たくて悲しい目をしているから……」