崩壊する研究所の瓦礫を避けながら、名前は出口を目指していた。
途中、名前が進む方向とは別の道から火の手が上がっているのが見えた。この研究所で犠牲となった人々の怨念が全てを呪い、燃やし尽くすかのような勢いで、名前の方へ業火は迫ってくる。
その炎に巻き込まれぬよう名前が走り続けていると、やがて道の先から誰かの声が聞こえてきた。
「……名前様!!」
次第に近づいてくるその声は、名前にも聞き覚えのあるものだった。
「あの声は……セトさん……?」
名前と離れてから、セトは別の経路を辿り名前の行方を捜していた。
「名前様!!」
セトは名前の姿を見付けると、すぐに彼女の腕を掴んで走り出した。
「時間がありません! とにかくここを出ましょう」
セトはそのまま研究所の外まで名前を導き、島の漁港まで駆けていく。
港に用意していたモーターボートの助手席に名前を乗せると、セトは運転席に座った。セトがエンジンを掛けると、すぐにボートは島を離れていく。
名前が島の方を振り返ると、研究所が炎に包まれていく様子が見えた。アレックスと過ごした日々が夢であったかのように、全てが焼失していく。
やがて巨大な爆発音と共に研究所が崩壊し、その衝撃が名前達のところまで飛んでくる。一瞬ボートが大きく揺れたが、セトはハンドルを操作してバランスを取ると、そのまま運転を続けた。
「アレックス!!」
名前は島に向かって叫んだが、今の自分にできることは、彼の元に戻ることではない。
自分にそう言い聞かせていた名前だが、涙が頬を流れていく。
「……名前様……貴方様はアレックス様から大切なものを託された身です。名前様が生きることが、アレックス様が生きることでもあるのです」
セトは励ますようにそう言うと、名前にさりげなくハンカチを手渡す。
島を離れていくボートは霧に包まれた海原を走り抜けていき、やがてその姿は見えなくなった。
ザイン島を離れて数十分後、ボートが陸地に到着した。島から出たことのない名前は知らない土地だったが、セトにボートから降りるよう促される。
「私はアレックス様から、名前様を安全な場所にお連れするよう言付かっております。今からそちらへ向かいますので、私についてきてください」
セトは先にボートを降りると、名前にボートから降りるよう手を差し伸べる。名前がセトの手を掴んで岸に上がると、セトはそのまま名前を先導した。
セトが案内するまま名前は岸辺を離れ、陸地に広がる森を歩いていく。道もない森の中を、セトは行き先が分かっているかのように迷いなく進んでいった。
「……あなたは、私が転生の儀を受けたことを知っているのですか?」
ボートで移動中、セトが自分に掛けた言葉をふと思い出した名前は彼に尋ねる。
「はい。名前様のことについては、アレックス様から聞き及んでおります」
セトはそれだけ言うと、そのまま名前の前を歩き続けた。
そのまま鬱蒼と生い茂る木々の間を二人で歩いていると、やがて開けた場所に出てくる。そして、その中心には洋風の邸宅が建っていた。
セトはその邸に向かい扉の鍵を開けると、名前に中へ入るように言った。室内には椅子や机などの調度品が置かれていたが、誰も住んでいないのか生活感がなかった。
「名前様には、しばらくこちらでお過ごしいただくことになります」
「ここは何なのですか?」
「アレックス様が所有されている邸宅でございます」
ザイン島を訪れて以来、アレックスは予め島周辺に幾つのか拠点を築いていた。それは避難所のようなものであり、島から少し離れた地点に建っている。
この邸宅もその内の一つであり、t-phobosに関する事故や情報漏洩などが起こったときに備えて密かに建てていたものだった。
「そして、もしアレックス様がお戻りにならない場合……この家の所有者は貴方様となります」
「どうして私が……? 私はアレックスからそんな話は聞いていません」
名前が言葉の真意を呑み込めていない様子を見て、セトは言葉を続ける。
「名前様にはアレックス様の、そしてアルバート様が遺されたものを受け継ぐ資格があります」
「アルバートとは、誰のことですか?」
「アルバート様とは、アレックス様にとって兄のような存在だった御方です。アルバート様もアレックス様に比肩する知性を備えられた、偉大な研究者でした」
以前、名前はアレックスから血の繋がりはないが、兄のように思う人がいることは聞いていた。それは恐らくアルバートのことなのだろうと名前は思った。
「アルバート様はウロボロスという身体能力の進化を促すウィルスを開発されましたが、そのウィルスを脅威と見做した組織によって命を奪われました」
そう話すセトの声は落ち着いているが、どこか怒りのようなものが含まれていた。
「そしてアルバート様は組織に対抗する際、御自身にもウロボロスを投与されていました。その後、アレックス様はアルバート様と、共に戦った女性の御遺体を回収し、体内に残されていたウィルスを研究資料として保存されていたのです」
そこで一呼吸置いた後、セトは名前の目を真っ直ぐに見て話す。
「そして転生の儀の際、アレックス様はt-phobosを投与した名前様に、アルバート様のご遺体から採取したウィルスを投与されました」
「!」
転生の儀で目覚めてから今まで、名前はアレックスからその真実を聞かされたことはなかった。
セトはアレックスが転生の儀を行ったときの様子を名前に説明する。
「アレックス様は転生の儀を行う前に、名前様の体質や遺伝情報について精査されていました。その際名前様には〈素質〉があることを知り、貴方様に全てを託されたのではないかと思います」
「素質?」
「名前様の御身体はt-phobosとウロボロスに適合する素質をお持ちだということです」
「……」
名前は今まで、自分にそういう体質があることも知らされていなかった。
「……恐らくアレックス様は名前様の経過を見て、段階的にこのことを説明されるおつもりだったのではないかと思います」
名前の心情を察したのか、セトは付け加えるようにそう言った。
「そうすると……いずれ私は多重人格のようになるということですか?」
名前の問いに、セトは首を横に振る。
「アレックス様が開発されたt-phobosには記憶を転移させる作用がありますが、ウロボロスは強制的な身体能力の進化を起こすために開発されたものです。記憶を引き継ぐような、精神に作用する効果はありません。ですが……」
セトはそこで何かを考え込むように黙り込む。
名前はそれを訝しく思ったが、それよりも気になることがあった。
「ウロボロスは身体能力の進化を起こすと言いましたが……私には何の変化も起きていません。それはなぜですか?」
名前の問いを受けて、セトは答える。
「通常、ウロボロスの適合者はすぐに身体能力の変化が見られます。しかし名前様に投与されたウロボロスは、アルバート様から採取したものです。それは通常のウロボロスとは異なることを、アレックス様は研究の過程で発見されていました」
「私に投与されたウロボロスは、一体何が違うのですか?」
「身体能力の変化が緩やかである、ということを私はアレックス様からお伺いしています。つまり、名前様の体内にあるウロボロスはまだ休眠状態であるということです」
更にセトは説明を付け加える。
「これはアレックス様と私の見解ですが……アルバート様と共に戦った女性は、体内で特殊な氷を生み出す性質を持っておられました。そして二人の御遺体は、その女性の氷に包まれるようにして守られていたのです。そのとき、アルバート様の体内に残るウロボロスに、何らかの変化が起こった可能性があります」
セトの説明を受けて、名前は自分の身に起きていることを理解し始めていた。彼の説明が確かならば、いずれウロボロスの能力が目覚め、自分の身体に変化が起こる可能性があるということだ。
「アレックス様は、いずれ名前様はウロボロスの力を使いこなせるようになると……そうお考えになっていました」
「私が……? なぜですか?」
「名前様は強い意思を持って生きてこられた御方であるからと、アレックス様は仰っておりました。アレックス様は、人間の意思とウィルスには関係性があると考えておられたようです」
「アレックス……」
それは名前が研究所で、記憶のアレックスに正直な気持ちを打ち明けられたときに感じたものと同じだった。
アレックスは自分を信じて全てを託したのだということが、名前にも伝わった。
名前はアレックスと自分の思いが共鳴するのを感じていた。
話の流れでセトから一通りの説明を受けた名前だが、名前は自分のことよりも、ザイン島に残っているアレックスのことが気がかりだった。
しかしセトはアレックスの指示通り、名前の監察と護衛のためにこの場を離れないだろう。当然保護対象の名前をここから出すはずがない。
「お願いがあります。アレックスを助けに行ってもらえませんか」
名前は懇願してみたが、やはりセトは首を横に振るだけだった。
「それはお受けできません」
「私はここから逃げたりしません。ですから、アレックスを助けてください!!」
名前の必死な様子にもセトは顔色を変えず、その場から動かなかった。
「私はアレックス様より、名前様の側から決して離れぬようご指示を受けています。そして……仮にアレックス様から救援要請を受けても、私はアレックス様の元に戻るつもりはありません」
「……?」
セトの言葉に名前が怪訝な表情を浮かべていると、彼は名前の正面に向かってくる。
そして自分の胸に手を当てたセトは、名前に向かって敬礼の姿勢を取った。
「私の主は、今より名前様となるからです」
突然告げられたセトの言葉に名前は困惑する。
「どうしてです? あなたは私の監視役ではないのですか?」
「元々私はアルバート様に仕えていましたが、アルバート様の御遺体を保護してくださることを条件に、アレックス様に仕えたのです」
突然の展開に躊躇う名前に構わず、セトは言葉を続ける。
「そして名前様は、アルバート様とアレックス様の開発されたウィルスに適合する素質を備えられた、お二人の御遺志を継ぐ者。だからこそ私は貴方様にお仕えするのです」
そう話すセトの目は、一種の狂気を感じさせるほど真っ直ぐに名前を見ていた。
「名前様は、アレックス様にお会いする前から神と呼ばれていたそうですね」
「私は……神などではありません。周囲が勝手にそう思っていただけです」
セトは名前が謙遜していると思ったのか、彼女の言葉を聞いても笑みを浮かべるだけだった。
「私には貴方様が神と呼ばれていたことが、啓示に思えてなりません。そして……やはり神となるに相応しい御方なのでしょう」
セトは名前の前に跪くとその手を取り、名前の手甲に額を寄せる。
「今日より私は名前様に忠誠を誓います。これからは私が貴方様をお守りいたしましょう」
戸惑う様子の名前を、セトは顔を上げて見る。
その瞳には永遠の忠誠を誓う光と、彼が神と崇めるものへの信仰心が表れていた。