「やめて!!」
「なっ……」
目の前にいる人物を見て、狂気に呑まれかけていたアレックスは正気を取り戻す。
「……名前……なぜ、ここへ……!?」
アレックスの前に立っていたのは名前だった。
「あなたは?」
「私は名前と言います。この島の人間です」
名前は驚愕するアレックスに構わず、クレアの問いに答える。
「アレックス・ウェスカーはこの島を滅ぼしたのよ。どうして彼を庇うの?」
「たとえそうだとしても、アレックスは私にとっては恩人です。だから見殺しにはできません」
名前はアレックスが一人になりたいとき、地下施設にあるピアノを弾くことを知っていた。それはアレックスが奏でるピアノの音が、名前のいる別邸にも度々聞こえていたからだった。
地下深くから響き渡る、時に激しく、時に陰鬱な旋律。それがアレックスの胸中に渦巻く苦しみの音色であることも、名前は感じ取っていた。
セトと別れた後、名前は地階へ進むほどピアノの音が聴こえてくることに気付き、アレックスが地下施設にいることを確信した。
アレックスは獣のような姿に変わり果てていたが、面影や声色から名前にはそれがアレックスだと分かった。
「あなたにとっては恩人かもしれない。けれど、ごめんなさい。彼を見逃すことはできないわ」
詳しい事情は分からないが、クレアは直感と経験から、名前の態度に悪意はなく、嘘偽りのないものと感じた。
「アレックスが許されないことをしたのは分かっています。でも、お願いだから殺すのはやめて!!」
名前にそう言われたクレアは、名前を説得しようと近付いていく。
クレアは名前を攻撃するつもりはなかったが、それを見たアレックスの瞳が鋭く光る。
「名前に……手出しするなアアッ!!」
怒りが、ウロボロスがアレックスの力となり、その勢いのままアレックスはクレアに襲い掛かる。
並の人間であれば、アレックスのその気迫と狂気に圧倒されていただろう。しかし、クレアは若年からバイオテロに立ち向かってきた歴戦の戦士だ。
また爆発の傷を負い、胸部の核を撃たれたアレックスの動きには、僅かに隙があった。
クレアは引き下がることなく、飛び掛かってくるアレックスの胸部に狙いを定めて再び弾丸を放った。
銃弾が胸部の核を貫いた瞬間、アレックスの体は一瞬硬直した。
数秒後、アレックスは獣のような呻き声を上げて体勢を崩す。
やがてアレックスの巨躯は、空間を震わせる地響きと共に倒れた。
「アレックス!!」
名前は倒れたアレックスの体に縋り、アレックスの名を呼ぶ。
アレックスの意識は朦朧と彷徨いながらも、名前の声だけは聞こえていた。
「名前……」
「アレックス!! どうしてこんなことを……」
アレックスは名前が自分を呼び続ける声を聞いて、ふと思う。
研究者として成果を出し続けた私を称賛する声は、今まで何度も聞いてきた。
だが今や何も持たぬ私を真剣に案じ、名を呼んでくれる名前の声……
それは、何と温かいものだろうと。
今になって、私は気付いた。
名前が眠る前で自分を終わらせようとしたあの日、なぜそうすることができなかったのかを。
自分がこの世から消え去ることを恐れたのではない。
ただ私は名前の側にいたかったのだ。一秒でも長く、彼女と共にいたかっただけなのだと。
「……名前」
アレックスは血に濡れた手を震わせながら、名前の頬に触れる。
「君は、生きてくれ……」
「嫌、嫌よ……このままアレックスを置いていけない!!」
名前はアレックスの体に縋り、離れようとしなかった。
「……おい、アレックス……聞いているか?」
アレックスは名前の方を見てそう呼び掛ける。
「アレックス、何を……」
「お前に話し掛けているんだ。もう一人の、私……」
アレックスがそう言って名前の目を見詰めていると、名前の表情や眼差しが別人のように変わっていく。
「……こんなときに私を呼び出すとは、一体何の用だ?」
名前の内にいる記憶のアレックスが現れると、アレックスは気力を振り絞るように話し掛ける。
「……頼む。お前が名前を、守ってくれ」
アレックスはただ一言、力強くそう言った。
「そうしてやってもいいが……守り切れるかは分からんな」
「お前にとっても……名前は、大切な存在なのだろう?」
「ああ。だが名前の意識が、ここを離れたくないと言っている。お前が死ぬなら共に、と叫んでいる……私は名前の体に棲まう身だ。宿主の強い意識に逆らうなら、名前の意識を殺すことになる」
記憶のアレックスは不服そうに、だが真剣な面持ちでアレックスにそう答えた。
「ならば、お前が名前を説得してくれ……私に、長く話すだけの時間はもうない……できないなら……お前が意識を保ったまま、ここから離れろ」
「難儀なことを言うものだな……私はできる限り名前の思うようにさせてやりたい。それに、お前の言うことは聞きたくない。名前がここで死にたいと言うなら、私もそうするさ」
記憶のアレックスは、アレックスの言葉を受け入れない様子だった。
「私の、最後の願いだ。お前は私だろう……私の願いを、聞いてはくれないのか?」
「……」
「私の意識は、じきになくなるだろう……ウィルスに支配され、自分が誰かも分からなくなる……このままだと、我を失った私は名前を殺してしまうかもしれない……」
そこまで話を聞いていた記憶のアレックスは溜息を吐く。
「お前は、どこまでも勝手な奴だ……」
この状況に構わず、この自己中心的な男が自分の素となった人間なのかと、記憶のアレックスは呆れていた。
「……仕方がない。どのような理由であれ、私はお前によって生まれた存在だ。最後の頼みくらい聞いてやろう」
記憶のアレックスは立ち上がると、床に倒れているアレックスを見下ろした。
「……お前の意思は私達が継ごう」
聞こえるか聞こえないかの声でそう呟くと、記憶のアレックスは地下施設の出口に向かって歩き始める。
「待ちなさい! どこへ行くの?」
様子を窺っていたクレアが立ち去ろうとする名前に声を掛ける。
クレアは名前の内にアレックスがいることは知らないが、先程までの名前と様子が違うことに何となく気付いていた。
呼び止められた記憶のアレックスはクレアを一瞥すると、ニコリと笑顔を浮かべる。
「さようならお姉さん……あなたは眩しいものを持っている。だから……あなたとはまた会う気がするよ」
そう言うと記憶のアレックスは出口に向かって走り出す。その後を追おうとするクレアの足を何かが捉えた。
「!」
クレアが下を見ると、自分の足首をアレックスが掴んでいた。重傷を受けた体のどこにそんな力が残されているのかと思うほどの物凄い力だった。
クレアの意識がそちらに向いた隙に、記憶のアレックスは地下施設を走り去った。
記憶のアレックスは意識を保ったまま、地下から外へ繋がる緊急用の脱出経路を走っていた。
転生の儀で引き継いだ情報から研究所の構造を把握していたアレックスは、脱出までの最短経路を進んでいく。
出口に向かう間に壁や天井が崩れ始めているのを、アレックスは目の端に捉えていた。
立ち止まる時間はない。アレックスはひたすら走り続けていたが、突然足が石のように重くなり動かなくなった。
(……どこへ行くつもり? アレックスはどこなの?)
抑え付けていた名前の意識が、アレックスにそう話し掛けてきた。
(あいつに君を助けるよう言われた。このまま研究所から脱出する)
(そんな……アレックスを置いていけない!!)
名前の意思が足を止めていると気付いたアレックスは、死のうとしている名前の意識に気付きながらも話し始める。
(アレックスは私だ。ここにいるだろう)
(違う! はぐらかそうとしないで!!)
(この期に及んでも、君を利用したあいつの死が悲しいのか?)
(私は自分の意思で転生の儀を受け入れた。だからそのことに後悔はない。命を懸けようと思えた人が死にかけているのよ。悲しいに決まっているでしょう!!)
名前は冷静さを失っているようだった。アレックスは名前を落ち着かせるように話す。
(私もアレックスであることに変わりはない。君がここで死ねば私も死ぬ。それでも構わないのか?)
(……だからこそよ。あの人は、あなたなのよ。もう一人の自分を置いて行くつもり?)
(ああ。それがあいつの望みでもあるからな)
名前の悲しみは、同じ体にいるアレックスにも伝わってくる。
アレックスの声も聞こえていないかのように、名前の意識は錯乱していた。
(このままアレックスを置いて行ったら本当に死んでしまう!! 助けに行かないと!!)
(……あいつは、恐らくもう助からないだろう)
(何を……言っているの?)
アレックスの言葉に、名前の悲しみが驚きに変わるのをアレックスは感じ取る。
アレックスは名前を落ち着けるよう、自分が地下施設にいたときの状況を説明した。
(名前が私の意識と交代したときに、あいつは自分は死ぬだろうと言っていた)
(どうして? いつものアレックスなら、そんな弱音は吐かない)
(あいつは研究所に侵入してきたテラセイブの隊員を消すため、自分にウィルスを打ったんだ)
名前の脳裏に獣のように駆け回り、クレアに襲い掛かっていたアレックスの姿が思い起こされる。
(力を得た代償として、じきに自我が崩壊する可能性が高い。正気を失ったあいつの側にいれば、君もどうなるかは分からない。だから君を引き離すよう、あいつから頼まれてここにいるんだ)
状況を理解した名前は、これから自分はどうすればいいのか、迷ったように黙り込む。
(……名前)
名前に話し掛けるアレックスの声色が、一段と穏やかなものに変わる。
(君はあいつを愛したように……私を愛してはくれないのか?)
(……アレックスの記憶であっても、あなたは別人よ。元が同じでも、同じ経験をする訳ではない。たとえ生き延びたとしても、これからアレックスとは違う人生を、あなたは私と生きることになる。だから、別人よ)
名前がそう言うと、アレックスは何かを堪えるように黙り込んだ。
(……)
(アレックス?)
(……ああ、苦しい!! 私は私であることが苦しい!!)
時間的な余裕がなかったとはいえ、名前は勝手に行動したアレックスを憎く思う気持ちがあった。
だがアレックスの様子がいつもと違うことに気付くと、名前はアレックスのことが心配になった。
(どうしたの……アレックス?)
(名前が苦しんでいるときや、悲しんでいるとき……私には君を抱き締める腕がない。一緒に流せる涙もない。君は私の言葉も聞いてはくれない……君の中にいるのに、私は無力だ)
(……)
演技などではない、アレックスが本心からそう言っていることが、名前の意識に伝わってくる。
(なぜ私が本物を嫌うのか、君はいつも私に尋ねてきただろう?)
(……どうしてアレックスを嫌うの?)
(あいつは大切にしていたはずの君を転生の儀に利用した。そしてあいつがいるために、名前が私と向き合うことをしてくれないからだ)
アレックスの言葉に、名前は胸を打たれたような、時が止まったような感覚を覚えた。
(名前がこのまま研究所に残るなら、私は君とここで死ぬ。名前とは、生きるも死ぬも一緒でいたい……)
(……)
(名前……君はこれからどうしたい?)
アレックスがそのように自分を思っていたことを、名前は知らなかった。
そして同じ体にいながら、アレックスのことを知ろうとしていなかった自分にも気付いた。
野心家であるアレックスの記憶が移された以上、名前はいずれ彼が自分の意識を支配するつもりでいると思っていた。
そして名前は転生の儀を行うと決めたときから、その覚悟はしていた。
しかし、アレックスには名前の意識を消す意思はないらしい。
アレックスに真摯な心を打ち明けられて、名前は気付いた。
自分の内にいるアレックスにも、新たな自我が芽生え始めているのだと。
そして今となっては、自分はアレックスの遺志を託される存在になったのだと。
(……アレックス)
(……)
(私……あなたとここを出る)
(名前……)
(ありがとう。もう大丈夫だから……)
名前がアレックスにそう語り掛けると、ゆっくりと名前の目が閉じる。
次に目を開いたとき、そこには強い眼差しをした名前の表情があった。
「あなたを死なせる訳にはいかない。私の中の、アレックス……」
アレックスの意識はもう眠っていた。
迷いのない意思を示すかのように、名前の足は真っ直ぐに脱出経路を走り始めた。