その後、アレックスはそのまま名前を別邸に住まわせることにした。
名前がただの島民であれば、時機を見てt-Phobosの実験に利用することもできただろう。
だが神として扱われていた名前がすぐ消息不明になったと知れれば、彼女の存在を知る島民から不審に思われる可能性がある。
それに普通とは違う人生を送ってきた名前の人間性についても、アレックスは個人的に関心があった。
アレックスは仕事の合間、時々名前の様子を見に行っていた。大抵名前は本を読んでいたが、それは幽閉されていたときからの習慣で、育ての親や番人から文字を教わったらしい。
アンブレラ研究所では、名前のような身寄りのない人間や孤児が実験台に使われることもあった。
彼らは読み書きはおろかまともに話すこともできず、人を見れば獣のように暴れるような、無教養な人間が多かったことをアレックスは思い出す。
名前は初対面のときから敬語を使ったり、無暗に自分のことを話さない点で賢いとは思っていた。
だが名前が実際に書を読み、文字を書くのを目にするまで、一般的な教養が身に付いているとまでアレックスは思わなかった。
そこから察するに、幽閉の身とはいえ名前は放置されていた訳ではなく、やはり神として丁重に扱われていた部分もあったのかもしれないとアレックスは思うのだった。
アレックスが訪れると名前は本を閉じて、他愛ない話を二人で交わすのが日課のようになっていた。
会話の中でアレックスは名前に警戒されないよう接しつつ、名前のことやザイン島について色々と尋ねた。そして日を掛けて話すほど、本当に幽閉されていたのかと疑うくらいに、名前は島のことを色々と知っていることが分かった。
「なぜ君は幽閉されていたのに、そこまで島の事情に詳しいんだ?」
「ここは小さな島ですから、噂話はすぐ耳に入ってくるんです。それに私を見張っていた番人の中にも、物語を話してくれたり、島民の暮らし振りや最近の話題をこっそり聞かせてくれる人がいました」
恐らく番人は名前の身上を哀れに思い、せめてもの思いでそうした話をしていたのだろうとアレックスは思った。
そして番人の話題には島の日常的なことばかりでなく、島で起こった事件や、一部の人間しか知らないような情報もあったという。そういう経緯で、名前は幽閉の身でありながら情報通のようになっていたらしい。
「数年前、この島で若い漁師が殺される事件が起きたんです。首の辺りを切られたまま、遺体は海の近くに棄てられていたそうです。この島は無国家で警察組織もありませんから、犯人は島民が自力で捜すしかありません」
「だが無法地帯という訳でもないだろう。私が島に来たときには、既に自警団のような者がいたはずだ」
「はい。ですが、自警団の人々はあくまで島民の暮らしを守るための仕事をするだけです。事件が起きた場合、証拠がない限りは誰が犯人かを見つけ出すことはできません」
自警団の仕事は、島の見回りや島民同士の喧嘩や揉め事の仲裁が主であり、そもそもこの島で人が殺されるような事件は滅多に起こらないのだと、名前はアレックスに説明した。
「それで、犯人は見つかったのか?」
「島民は協力して犯人を捜したそうですが、凶器も見つからず、一向に犯人を捕まえることはできませんでした。私はその話を番人から聞いて、何かできることはないかを考えたんです」
それから名前は、番人達から事件に関する情報を聞き集めることにした。
そもそも遺体を海に流せば殺人を隠蔽することもできたはずだが、なぜ犯人はそうしなかったのか。
遺体は水死体になっていなかったことから、海に流した遺体が波に打ち上げられ戻ってきた訳でもないようだった。
「ここに私を連れてきた番人が話していましたが……アレックスさんはこの島の風習のことを覚えていますか?」
「海から島に流れてきたものを忌み嫌う風習のことか?」
「はい。私はその言い伝えを信じる人間が怪しいと思いました。信仰心から海に遺体を流さなかったのではなく、流せなかったのではないかと」
古くからの風習といっても、名前を見張る番人の中でさえそれを信じる者もいれば、内心はただの迷信に過ぎないと思う者もいた。
そのように言い伝えを信じない人間がいたからこそ、名前も様々な情報を知れたのだった。
「もし海に棄てた遺体が海流で島に戻ってきた場合、犯人は自分が呪われるのではと恐れていたということか」
「はい。そこで犯人は島周辺の海流に詳しい人間ではないかと思ったんです。犯人は、海に流したものが帰ってくることを知っていたのではないかと」
「だが、それだけでは仮説に過ぎない。それを証明するような記録や証拠が必要だろう」
アレックスの言葉に名前は頷き、言葉を続ける。
「私はこの島に海から流れてきたものを嫌う風習があるということは、昔から漂流物が流れ着きやすい場所にあるのではないかと考えたんです」
その予想が正しければ、島から海に流したものも海流で戻ってくる可能性が高いことになる。犯人はそのことを知る人物ではないかと名前は考えた。
「それを確かめるため、私は島の漂流物について番人に調査してもらいました。その結果、この島は海岸にゴミや魚などがよく打ち上げられているようで、自警団の日誌や記録にも、それらの漂流物について書かれたものが多いことが分かりました」
「そうすると、犯人は大分絞られてくることになるな」
「はい。島の風習を信じ、島周辺の海流に詳しい人間。この小さな島でそれらに当てはまるのは、漁業に携わる人間です」
名前がその推測を番人に伝えた頃、被害者は一気に刃物で首を裂かれたような創があったことから、肉を捌くことに慣れている猟師達が疑われていたらしい。
その推測は島民が事件について話し合う集会で、ある漁師の男が言い始めたことだという。
「だがその漁師の言うことも一理ある。それに遺体は海に流さずとも、猟師のように森に詳しい人間であれば、人気のない場所に埋めることもできただろう。なぜ犯人はそうした方法を取らなかった?」
アレックスの問いを受けて、名前は理由を答える。
「この島の森林地帯は、野生の狼や野犬が棲息しています。猟師のように地形を理解し、狩猟技術がある人でさえ立ち入るのは危険な場所です。ですが、生活のために彼らは命懸けで狩りをしています。そんな場所に遺体を運べば、血の匂いを嗅ぎつけた獣の群れに、犯人も襲われてしまうでしょう」
次に、名前はなぜ犯人が海辺に遺体を放置したのか推測を話した。
「この島は何か噂が立つと、すぐ島中に広まるような小さい島です。遺体を運びながら移動したり、隠すためにその場に留まれば、他の島民に気付かれてしまいます。そこで犯人は海の近くで咄嗟に被害者を殺してしまい、そのまま放置したのではないかと思いました」
名前の仮説を聞いた番人は、名前から聞いたままの話を自警団の人々に伝えた。
その後自警団は漁師の男になぜ猟師達を疑うのかを尋ねたが、詳細に問い詰めるほど確かな証拠がある訳でもなく、尤もらしい根拠がある訳でもなかった。
これを怪しく思った自警団が男を捕らえて尋問を続けると、やがて男は自分が被害者を殺害したことを自白した。
殺害理由は、犯人と被害者は同じ舟で魚を捕っていたのだが、その取り分で揉めることが多かったらしい。
しかし貧しさからそれぞれの舟を買う金はなく、儲けを得るなら一人より協力して漁をする方が効率は良かった。
犯行当日も犯人と被害者は言い争いになり、我慢の限界に達した犯人が咄嗟に持っていた間切包丁で被害者を切り付けてしまったという。
殺すつもりはなかったらしいが、喧嘩の最中に図らずも致命傷となる首元を切ってしまったのが事件の真相だった。
「人に罪を擦り付けるつもりが、墓穴を掘ったということか」
「何かを取り合いになったとしても、殺人まで発展することはそうはないと思います。貧しさが人の心を殺人に駆り立てるほど、この島は困窮していたんです」
名前はそう言っているが、アレックスにとってこういう話は、そう珍しいものではなかった。
アレックスがアンブレラ研究所に勤務していたときも、ライバルを陥れようと薬殺を企てたり、実験中の事故に見せ掛けて気に入らない者を消そうとする職員は一定数いた。
それらは企てが露見しなければ事故として処理されるが、失敗した場合は研究所を去ることになる。〈去る〉とは実刑が科されるのではない。それは、研究所で生物研究の実験材料になるということだ。
貧しくなくとも、リスクがあろうと、欲のために人の命を奪おうとする人間などどこにでもいる。
ただ他人に殺意を抱くような機会が人生に訪れるか否かの違いだけで、人間とは誰でもそういう面を持っているものだとアレックスは思っていた。
そういう環境と人生観で生きてきたアレックスにとっては、殺人事件だろうと島民の事情に関心はなかった。
それよりも名前が事件にどう対応し、その後どういう扱いを受けたかの方にアレックスは興味があった。
「それで、君の功績を島の人達は知っているのか? この事件は君がいなければ冤罪者が出るか、未解決になっていた可能性が高いだろう」
「詳しいことは分かりませんが……私の存在を知る誰かが、一部の島民に話したのではないかと思います。後日、供物として島の特産物を大量に抱えた番人が、それを私の元に運んでくれました」
事情を知らない島民からすれば、名前が神通力や千里眼を使って犯人を看抜いたと思ったのではとアレックスは考えていた。
そしてそういう名前を島民達はどう思っていたのだろうかとアレックスは思う。名前に感謝したのだろうか、更に畏れたのだろうか。
「興味深い話だったよ。流石は恐神様だ」
「その呼び方はやめてください」
アレックスは冗談のように言ったが、名前は睨むような目でアレックスを見た。
出会った当初から今でも、アレックスは名前を神と思う気持ちはない。寧ろアレックスは必要な情報を全て聞き終えたら、彼女を実験に利用することも考えていた。
しかし名前と話す内に、アレックスの心境は変わっていった。名前と会話を重ねるほど、彼女は他の島民とは違うと感じ始めていた。
今や島民の多くは羊のように従順で、アレックスの言うことに従うだけだ。だが名前は、今まで自分の意思で生きてきたのだと感じた。
アレックスから何かを与えてもらうことだけを考えている人々より、幽閉され自由さえなかったはずの、彼女の方が能動的に生きていた。
誰の助けも期待できず、限られた状況の中であったからこそ、名前は自分で考えざるを得なかったのかもしれない。
だが不自由を嘆くのでも耐えるのでもなく、その状況に順応し、人々に影響を与えていた名前の姿に、アレックスは僅かに興味を持ち始めていた。
そして忌み嫌われていた名前の境遇について深く知るほど、それがアレックスの中で自分の境遇と重なっていった。スペンサーの庇護の下、籠の鳥であったときの自分に。
そうして名前と時を過ごしている間に、アレックスは名前に親近感を抱くようになっていた。
だが名前を知るほどアレックスの胸には喜びと悲しみ、表裏一体の感情が広がった。死ぬのがより怖ろしくなった。
なぜ名前のような存在と巡り会えたというのに、自分は死に逝こうとしているのかと。
類は友を呼ぶという言葉がある。アルバートとアレックスがそうであるように。
アレックスは時々、自分が名前と出会うのも必然だったのではと思うことがあった。
しかし死という形で名前と離れることが、無慈悲なことを繰り返してきた自分の運命、罰なのだろうかという考えも頭を過ぎるのだった。