客間を出て薄暗い廊下を歩いていた名前は、アレックスのことを考えていた。
アレックスは平然と、一人の人間として名前に接してきた。育ての親が亡くなってから今まで、そんな人間を名前は見たことがなかった。
彼は自分を神ではなく、人として見てくれているのかもしれないと名前は思う。だが神をも恐れないというだけで、実際は軽んじているのかもしれないとも思った。
名前がそう思う理由は、アレックスを初めて見たとき、島の人々とは違う雰囲気を感じたからだった。
あの違和感の正体は何なのか、まだ名前にも分からない。あの男の碧い目の中に感じた、氷のように冷たい光を思い出す。そして仮面を貼り付けたような笑顔。
島民の多くはアレックスを救世主と崇めているようだが、実際に会ってみると名前は背筋が寒くなるような感覚を覚えた。まだ初対面ではあるが、あの男を信用してはならないと、名前の心が警鐘を鳴らしていた。
名前が入浴を終えると、いつの間にか脱衣所に白いワンピースと下着類が綺麗に揃えられていた。
名前がそれを着てみると、どれも測ったかのようにサイズが合う。不審に思った名前は、客間に戻るとそのことをアレックスに尋ねた。
「私が使用人に言って用意させたのだが……サイズが合わなかったかな?」
「いいえ、寧ろぴったりで……どうして分かったのかと」
ソファに座り蝋燭の明かりで本を読んでいたアレックスは、それを閉じてテーブルに置くと名前の方を見る。
「どうしてって……大体見れば分かるだろう?」
「服はまだしも……下着のサイズまで分かるものですか?」
「体格を見れば、平均的なサイズくらい分かるさ」
厭らしい雰囲気もなく、あっさりとアレックスはそう言った。観察眼が鋭いのか、当たり前のように話すアレックスに名前は呆然とする。
そして知らぬ間に目測されていたのかと思うと、名前は何だかアレックスの顔を見られなくなってしまった。それに気づいたアレックスはおや、と可笑しそうにする。
「安心してくれ。私は神を変な目で見たりするほど、不躾な男ではないよ」
「ですから、私は神ではないと……」
「……ああ、そうだろうね」
「?」
「神はそんな俗めいたことを尋ねたりしないだろう。人間の女性らしい考えだ」
まるで神がどういうものか分かっているかのような口振りで、アレックスはそう言った。
「まあ、とにかくぴったりなら問題はないだろう?」
何の悪気もない様子で、アレックスは名前にニコリと笑顔を向ける。
「アレックスさん。こういうことは女性にすると変態だと思われますよ」
「私にそういう気はなかったのだが……気分を害したのなら悪かったよ」
アレックスは口ではそう謝っているが、それは場を収めるためのもので、本心では悪いと思っていないような雰囲気があった。
名前はまだアレックスのことをよく知らないが、彼の性格や価値観からすると、本当に何が悪いのか分からないようにも見える。いや、分かろうとするつもりもないのかもしれない。
そしてアレックスは、名前の態度を何となく面白がっているようでさえあった。アレックスにとって気に掛けるほどのことでもないと思っているのか。そういうことを気にするのは初心だと思われているのか。
名前は衣服のことを気にしているのではなく、アレックスのその態度に不信感を覚えていた。
名前が黙り込んでいると、その様子を見ていたアレックスはクスクスと笑い始めた。
「何が可笑しいんですか?」
名前に睨むような目で見られても、アレックスは悪びれる様子もなかった。
「いや、最初は無愛想だったが……随分可愛らしいところもあるのだと思ってね」
「!」
アレックスの言葉に名前が動揺していると、それを見たアレックスは更に笑い始める。
人が嫌がったり、困る様子を見て面白がるなど、意地が悪いか嗜虐的な気質があるのだろう。
アレックスに親切にされたことから少し気を許しかけていた名前だったが、それは間違いだと思い直すのだった。
名前の気分を余所に、アレックスはソファから立ち上がると読んでいた本を棚にしまう。
「食事の用意ができている頃だろう。君は食べたくないと言っていたが、それは食堂に行ってから判断してくれ」
アレックスはそう言って名前に手を差し伸べる。名前はその手を取るか迷い、その場に立ち尽くした。
「君は私の客人だ。主人のもてなしを断るのは、失礼だと思わないのか?」
「……」
アレックスにそう言われてしまうと、名前は何も言い返すことができなかった。
名前は躊躇いがちに、差し出されたアレックスの手に自分の手を乗せる。
アレックスは名前の手を引いたまま客間を出ると、薄暗い廊下を歩き始めた。名前は黙ってアレックスの隣を歩いていたが、その間アレックスも何も話さなかった。
長い廊下を歩く間、名前は自分の置かれた状況を考えてみる。
アレックスは食堂に行くと言ったが、名前はその言葉を何となく信用できない気持ちがあった。
そしてふと、この暗い邸の中であれば、アレックスから逃げられるのではないかと思い立った。
このままアレックスの手を振り切って姿を晦ませた後、何とかしてこの施設から出た方が安全ではないか。
そう思い始めると、薄暗い廊下の先の見えない闇が、名前には地獄の入り口のように見えてきた。
アレックスの元にいるよりは、幽閉されていたときの方がまだ身の安全は保障されている。
名前が考えを巡らせていたそのとき、不意にアレックスが名前の手を強く掴む。
名前がアレックスの顔を見ると、アレックスは笑みを浮かべて名前を見ていた。
「考え事をしていたようだな。何を考えていた?」
アレックスの口元は笑っているが、その目の奥には氷のような冷たさがある。
「気掛かりなことでもあるような顔色だ。それとも具合でも悪いのかな?」
名前は首を横に振る。アレックスはその様子をじっと観察するかのように見ていた。
「私が本当に君を食堂に連れていくのか……疑っているのか?」
名前の考えを見透かすようなアレックスの問いに、アレックスの手の上に乗せた名前の手が僅かに動く。
「……君はまだ私を信用していないようだが、心配しなくていい。神と崇められている君を、出会ったばかりの私が危険な目に遭わせる訳がないだろう」
名前の心中を読んだのか、予想したのか名前は分からなかったが、アレックスはそう説得するように言った。
名前に話し掛けるアレックスの声は終始穏やかで落ち着いていたが、どこか有無を言わさぬ威圧感が含まれていた。
蝋燭に照らされた廊下を抜け、名前はアレックスに案内されて食堂に入った。そこは中世貴族の食卓のような内装で、テーブルには既に二人分の食事が用意されていた。
「さあ、ここに座って」
アレックスは部屋の奥にある椅子を引くと、名前に座るよう促す。食卓にはこの空間を彩るように豪勢な料理の品々が並んでいた。
生まれてから今まで質素な食事しか知らない名前は、それらを前に本当に食べられる品なのかとでもいうように呆然としていた。
名前が座るとアレックスはテーブルに置かれたボトルを取り、グラスにワインを注ぐ。
「アレックスさん。こんなに親切にしていただかなくても……」
アレックスからの歓待に辟易する名前を見て、アレックスは笑みを浮かべる。
「人をもてなすのに適当なことはしたくないんだ。私のこだわりだから、気にしないでくれ」
名前にそう言うと、アレックスは自分のグラスにもワインを注いで席に着いた。
「さあ、いただこうか。ああ、気に入った料理やおかわりが欲しければ遠慮なく言ってくれ」
アレックスがフォークを手にすると、名前もそれに合わせる。
アレックスは予め、難しいテーブルマナーは必要ない料理を用意させていた。それは島民として育ち、幽閉されていた名前への配慮だった。
アレックスが名前を食事に誘ったのは、ただ客人としてもてなすためだけではない。
食事にはその人の心が表れる。食べ方や話し方からどういう育ちや人柄なのか、何に関心があるのかを知ることができる。
アンブレラ研究者として働いていた当時のアレックスは、相手の心理を読むためにあえてライバルを食事に誘うこともあった。
ライバル関係とは、自分と相手が同程度の能力を持つからこそ成り立つ。そういう人物と互いに話し合った結果、利害が一致すれば協力関係となることもあれば、一向に平行線で交わることのない者もいた。
そして数名の研究者は、何度かアレックスと会食を重ねた後、体調を崩して研究職を退いたり、原因不明の病で死亡していた。
アレックスは最初から、敵に攻撃を仕掛けるようなことはしない。たとえライバルであっても、何年掛かろうと、相手の信頼を得るよう接することを心掛けていた。
それ故に、食事に毒が盛られているとは疑いもしなかったのだろう。アレックスは自分の道を阻む者に対しては、どのような手段を使うことも厭わない男だった。
アレックスと名前は初対面なので、勿論食事に薬品や毒物を混ぜるようなことはしていない。この会食はアレックスにとって、名前に自分への警戒心を解いてもらうこと、そして名前がどういう人間であるかを知るためのものだった。
「もし嫌でなければ……君について色々質問してもいいかな?」
「はい。何でしょうか?」
アレックスは食事中、名前がどのような環境で育ってきたのか、いつから幽閉されていたのかなど、彼女の素性について尋ねた。
名前はアレックスに聞かれたことに素直に答えたが、自分から質問はしなかった。
アレックスも自分について話せる範囲で名前に話したが、名前はアレックスには余り関心がないようだった。
元々名前は口数が少ないのか、アレックスを警戒しているのかはまだ分からない。だが今の段階で色々と深く尋ねるのは、時期尚早だとアレックスは思った。
いずれにせよ名前は自分が振る舞った料理を口にはしてくれたので、ある程度の信用は得られたのだろうとアレックスは感じていた。