名前の死をも怖れぬ覚悟のためか。
 慈悲深い愛のためか。

 転生の儀は成功した。

 今までの私の苦心は何だったのかと言うほど、呆気なく。
 これほど近くに、転生の儀に適合する存在がいたとは。

 思えば、名前を転生の儀の素体にするとは考えたこともなかった。
 最初は他の人間と同じように利用するつもりでいたのに。それはなぜなのか。
 自分と似ているからこそ、名前が転生の儀に適合するのではないかと考えなかったのはなぜなのか。

 名前は愚かな自分を大切だと、愛していると言ってくれた。
 それで気付いた。自分も名前を愛してしまっているのだと。
 それがどういう愛かといえば、言葉で表せるほど単純なものではない。

 自分と共通点が多い、特別と思える存在。
 友人、恋人、いや、ソウルメイト……それらが複雑に廻るような気持ちだった。

 私の記憶を移すため、そしてt-Phobosの安定性を高めるため、名前は半年間の休眠状態に入った。

 転生の儀が成功した以上、もう実験体は必要ない。
 そう、そして本物オリジナルである私の肉体も。

 病に蝕まれた〈私〉はもう必要ない。
 これからは、名前の体に移された私の記憶が〈私〉となるのだから。

 アレックスは実験装置の中で眠る名前を見詰める。

 近いようで遠くにいて、遠いようで近くにいる。
 自分と名前を隔てる装置の覆いが、互いの関係性のように感じられた。

 ふと、アレックスは胸の痛みに顔を歪める。

「ぐっ……!」

 長年の心労が一気に押し寄せてきたかのような鈍痛に、アレックスはその場に蹲り動けなくなった。

 思えば、とうに全身を蝕まれていた状態で生きられたのは、何としても転生の儀を成功させるという執念があったからだろう。

 そして、名前と残された時間を少しでも長く過ごしたいという気持ちもあったのかもしれない。

 だが、その名前はこうして私のために眠りに就いた。

 痛みと息苦しさに耐え切れず、やがてアレックスはその場に倒れた。

 私はまだ死にたくはない。
 この身は死んで名前と生きる。

 本能と理想、二つの感情がアレックスの中で交差する。
 その気持ちを振り払うように、アレックスは懐から拳銃を取り出した。
 拳銃を静かに持ち上げると、アレックスは銃口を自分の顳顬こめかみに当てる。

 アレックスの目は名前の方を見ていた。そうすることで何か決意を固めるように。

 静かな研究室に銃声が鳴り響く。
 アレックスの頭部から伝う血が、研究室の白い床に広がっていく。

「名前……」

 アレックスは名前の眠る寝台に向かい手を伸ばす。
 視界は狭まり、伸ばした手の先が霞んで見えなくなっていく。

「名前……」

 アレックスは名前の名を何度も呼ぶ。
 視界が暗転する中、アレックスは名前が自分を呼ぶ声を聞いた気がした。








 最初に目に映ったのは、真っ白な天井。

「……」

 アレックスは自分の周囲を見渡す。
 嫌な予感が胸を掠める。

 そして実験装置に眠る名前の姿が見えた瞬間、絶望が胸に広がっていく。


 嗚呼、私は……


 アレックスは一瞬で全てを理解した。


 自分は、死ねなかったのだと。


 死ぬ直前、体内のt-Phobosが発症してしまったのだと。


 転生の儀を成功させるためには、記憶を引き継ぐ人間だけでなく、記憶を渡す人間もt-Phobosを投与する必要がある。
 元々病身のアレックスは、死への恐怖を抑えるためとして、定期的にt-Phobosを自身に投与していた。そして今まで、アレックスの肉体には何の問題もなかった。

 だが引き金を引く前の一瞬、アレックスは恐怖した。本物オリジナルである自分の死を。
 そして、名前を利用してしまったという拭い切れない罪悪感。

 それらの感情が体内のt-Phobosを暴走させ、アレックスはウィルスの力によって死の淵から引き戻されてしまった。

「あ、あ……ああ……」

 アレックスは名前の眠る装置に縋り、絶望に涙した。

「名前……すまない……私は、何て弱い人間だ……」

 今までの人生で、アレックスの狂気や執念ともいえる意思の強さは、成功を手にするための力となっていた。
 しかし、今回は捨てきれなかった生への執着心が勝ってしまったために、生き延びることとなってしまった。

 実験室に、アレックスの悲痛な呻き声が響く。
 アレックスがどれだけ嘆いても、名前の優しく自分を包むようなあの声も手も、今は幻想でしかない。
 名前は安らかに、死んだように眠っているだけだった。




 目覚めてから数日間、アレックスは〈生前の姿〉のままでいられた。
 大抵の生物はt-Phobosを発症した場合すぐに自我を失うのだが、ウェスカー計画を生き延びた身体を持つアレックスはそうはならなかった。
 アレックスの身体にt-Phobosが適合したのか、強い抗体を持っていたためか自我を失うことはなかった。

 しかし数週間後、鏡で自分の姿を見てアレックスは愕然とする。t-Phobosの影響で全身の皮膚が爛れ、次第に剥がれ落ち始めたのだった。そして日が経つにつれて、一部は筋肉が剥き出しになったような姿に変わっていく。

 数か月後には思うように呼吸ができなくなり、アレックスは息苦しくなると、呼吸器を付けなければならなくなった。
 更にはウィルスが脊髄に影響したのか、真っ直ぐに立つことが難しくなり、杖を突かなければ歩くことすらままならなくなった。

 今のアレックスにかつての華やかさや美しさはない。まるで魔物のように、醜い姿に変わり果ててしまった。

 生命維持装置を体中に取り付けねば生きられない体。
 こんな姿で生きていられない。
 死んでしまおう。

 アレックスは何度もそう考えた。だが装置の中で眠る名前を見る度に、アレックスは凄まじい絶望と嫉妬に駆られ、死ぬに死ねない気持ちも生まれるようになっていた。

 アレックスが嫉妬を覚えたのは、自分の苦痛を知らず、清らかに眠る名前にではない。名前の中に宿っていく自分に対してだった。

 もう一人の自分が名前と一体化していく現実に、歪んだ感情が生まれ、アレックスを狂わせていった。

「名前の側にいるのは、私のはずだ……」


 名前が眩く見えるほどに、自分の心は闇となり、その濃さを増していく。

 我が身を撃ち抜いたあの瞬間。私が恐怖しなければ、名前と共に新たな世を生きられたはずなのに。

 名前は未来ひかりで、私は過去かげの者となってしまった。


 アレックスはその残酷な現実を思う度に、心が打ちのめされるようだった。
 しかし記憶コピーの自分に嫉妬しているからといって、アレックスには我が身を捧げてくれた名前を殺すことなどできない。
 それに転生の儀を行った以上、蘇った今のアレックスは、その結果を見届けたい気持ちもあった。

 アレックスは記憶の自分に対する嫉妬心と、名前が目覚める瞬間を待ち望むという執念で、名前が目覚めるまでの半年間を過ごした。




 アレックスが肉体と精神の苦痛を耐え忍び、名前が目覚めるまであと数日となった頃。

 アレックスは書斎で本を読んでいた。静かに頁を繰る手は皮膚が剥がれ痛々しいものの、スラリと長いその指は、かつての美しさを想わせる。

 半年を待つ間、アレックスの苦痛を忘れさせてくれるのはこの時だけだった。

 本の装丁には、フランツ・カフカの『変身』と書かれている。
 カフカに傾倒するアレックスは、特にこの物語を愛していた。アレックスが若い頃から何度も読み直しているもので、装丁は煤けて傷つき、頁の端が破れている箇所もあった。

 この物語を読むことで、アレックスは落ち着いて自分を客観視できる。それは、登場人物のグレーゴルはアルバートを、その妹・グレーテは自分自身を想わせるからだった。
 人間だったグレーゴルはある日突然醜い虫に変身してしまい、やがてグレーテを含む家族にさえ差別されていく。

 この悲劇を読み終える度、アレックスは思う。兄がどのように姿を変えようと、兄が素晴らしい存在であることに変わりはない。私はグレーテのようにはならないと。
 そして今はこうも思う。たとえ兄が死しても、兄の遺した偉大な功績を、自分が継いでみせると。

 兄も自分も醜い姿に変わり果てたが、自分は兄と同じ道は進まない。
 自分は兄を尊敬していたが、兄とは別の人間である。
 兄は愛する者と共に消えたが、私は名前を同じ目に遭わせるつもりはない。

「私は遺志を継ぎ……お父様やアルバートを超えてみせよう」

 時も忘れ延々と、静謐な空間で兄を想い、名前を想い、グレーゴルの悲劇に我が身を重ね、もうすぐ目覚める名前を想い高揚する。

 期待や悲しみのために流れた涙が、剥き出しの膚にしみる。それでアレックスは正気を取り戻す。ここ数日はそんな日ばかりだった。

 もし今のアレックスを誰かが見れば、狂人が何日もかけて、儀式や呪いのように同じことを繰り返しているように見えるかもしれない。だがアレックスは自我を保っており、自分がウィルスの影響で錯乱したとは思っていなかった。

 そして、蘇ったあの日から「名前に逢いたい」と願う気持ちだけは、アレックスは一日たりとも忘れたことはなかった。




 蛹がやがて美しい蝶に変わるように、そのときはやってくる。
 アレックスは名前の眠る実験室にいた。
 長いような、短いような半年間、アレックスはこの瞬間だけを待っていた。

「名前……」

 アレックスは実験装置の向こうに眠る名前を見詰める。
 半年前と変わらない姿で、名前はそこに眠っていた。

 どうか、無事であってくれ……。

 期待と不安を抱きながら、アレックスは装置の器具を順番に解除していく。
 アレックスが最後の器具を外すと、ゆっくりと名前を覆っていた装置の蓋が開いた。

「……名前」

 アレックスが呼び掛けると、しばらくして名前の目が薄らと開く。

「う……」
「私の声が聞こえるか?」
「……ア、レックス?」

 半年振りに自分の名を呼ぶ名前の声を耳にして、アレックスは胸を撫で下ろす。

「ううっ……」

 しかし名前は顔を歪ませると、頭を抱えて苦しそうに呻き始めた。装置から崩れ落ちそうになった名前を、咄嗟にアレックスが支える。

「どうした、名前!」
「頭が……痛い……」

 名前はふと、自分を支えるアレックスを見た。

「アレックス……?」

 名前の視線にアレックスはハッと息を吞む。変わり果てた自分の姿を、名前が見詰めていた。

「……何も訊くな」

 名前の視界に自分を映さぬよう、アレックスは名前を抱き締める。

 名前が無事に目覚めたことは、この上なく喜ばしい。
 だが自分を見る名前の目を、見ていられない。
 名前は、私を醜いと蔑むだろうか。グレーゴルの家族のように……

 父や兄は逝ってしまった。
 名前にさえ拒絶されたら、私は……

 アレックスの体は僅かに震えていたが、その背中を温かいものが包み込む。

「アレックス……」

 アレックスが目を開くと、名前の腕がアレックスを抱き締めていた。

「良かった……また逢えた……」
「……名前」

 自分を抱き締める名前の頬に、アレックスは爛れた手で恐る恐る触れる。名前はアレックスの手を払い除けはしなかった。

「私を……醜いと思わないのか?」

 震えた声のまま、アレックスは名前に尋ねる。

「どんな姿になっても……アレックスは、アレックスよ……」

 アレックスに何が起きたのか、名前は何も尋ねることなくそう言った。

 名前は、転生の儀が成功すればアレックスが死ぬつもりであったことは知らない。
 それを伝えれば、名前は転生の儀を行うことに同意しないだろうとアレックスは思っていたからだ。
 結局は醜い姿のまま生き延びる形となってしまったが、名前の飾らない言葉は、疑惑や狂気に満ちたアレックスの胸を真っ直ぐに貫いた。

 ああ、名前はグレーゴルの家族のように、薄情な人間ではなかった……。

 喩えようもない喜び、そして次には苦しみがアレックスの心を埋め尽くす。

 私は、君を利用することしかできない男。
 君を私の元に連れて来たのも、最初は利用するためでしかなかった。
 そして追い詰められた私は、結局は君の強い意思に全てを懸けるしかなかった。

 なぜ、こんな男を君は慕うのだ。
 いっそ醜く生き長らえる私を嗤え。愚かだと嘲笑ってくれ。
 名前に醜い愚か者と罵られるなら、私は耐え忍ぼう。今の私は、そんな形でしか名前に償えないのだから。

 そして君も愚かだ、名前。だが君の愚かさは私のものとは違う。
 愚かなほど純粋で、美しい名前。
 君は私に全てを捧げてくれた。
 私は、私の全てを懸けて名前を守り抜こう。

 心の闇を静かな決意に変えて、アレックスはただ名前を抱き締めていた。



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