名前が転生の儀から目覚めて一月ほど経った頃。アレックスと名前は別邸で過ごしていた。
 相変わらずt-Phobosの影響で衰弱していたアレックスだが、彼は自分の命より名前のことを心配していた。

 転生の儀によって名前にアレックスの記憶が転移された。それが今後名前にどう影響を及ぼしていくのかは、前例がないためアレックスにも分からない。

 t-Phobosの作用が強ければ、名前に転移したアレックスが、名前の身体を完全に支配する可能性がある。それは名前の死を意味する。
 アレックスは、それだけは何としても避けねばならないと思っていた。

「アレックス」
「ああ……どうした名前」

 書斎でアレックスが資料を読んでいると、名前が紅茶を運んでくる姿が目に入る。
 名前が目覚めてから、アレックスは経過を観察するため、彼女を自分の側に置くようにしていた。

(今のところ名前は自我を保っているが……油断は禁物だ)

 転生の儀が成功してからも、アレックスは名前の容態と体内にあるウィルスを検査していた。
 そして異常が起きたときに備えて、アレックスはウィルスの安定性を高めるための開発研究を進めていた。

 既に島民のほぼ全てはアレックスの実験に利用されたため、ザイン島は無人に近い状態になっていた。
 アレックスが島に来てから近年は、島民にとっては地獄の日々だっただろう。だがそれが過ぎ去った後の静けさは、皮肉にもアレックスにとって研究に集中できる環境となっていた。

 名前には、私の願いを託した。
 それを守るのが、今の私の役目だろう……

 今後の計画についてアレックスが考えに耽っていると、突然何かが割れるような音がした。

 アレックスは我に返り、音のした方を見る。
 アレックスの目に映ったのは、紅茶を乗せたトレーを落として倒れている名前の姿だった。

「名前!」

 アレックスは椅子から立ち上がると、杖を突きながらできる限りの速さで名前に近付く。

「名前……名前!!」

 名前を腕に抱えてアレックスは呼び掛けるが、意識が戻る様子はない。

 名前が落としたティーカップが割れて側に転がっている。零れた紅茶が緋色の絨毯に染みをつくり、赤黒く広がっていく。その染みが徐々に名前の元まで伝ってくる。
 不吉な予感を覚えたアレックスは、名前を寝台に運ぼうとした。

 だがそのとき、名前は目を開くとアレックスの腕を掴んだ。

「……名前! 良かった……どこか痛むところはないか?」
「……」

 名前が意識を取り戻したことに安堵するアレックスに対し、名前は無表情でアレックスを見上げている。
 すると突然名前はアレックスに掴み掛かった。アレックスはその勢いで後ろに倒れ、名前がアレックスの上に圧し掛かる体勢になった。

「フフフ……」
「……?」

 名前の雰囲気がいつもと違うことにアレックスは気付く。

「やっと、出てくることができた」
「!」

 アレックスは名前の目を見て判った。それは、名前の眼差しではなかった。

「何と哀れな姿だ。そんな醜い姿で生き延びて……」
「お、お前は……」

 動揺するアレックスを見下ろし、もう一人のアレックスは顔を近付けていく。

「私はお前の記憶コピーだよ」

 残忍で嘲笑的な光を帯びた目……それは、もう一人の自分。
 アレックスの耳元で、絶望的な言葉が名前の声で告げられた。

「お前の記憶が名前に移されて、この私がいる。ということは、お前は死ぬつもりだったが、仕損じたんだろう」
「……」
「そうすると、名前を見て死ぬに死ねなくなった……名前と名前に移された記憶わたしがどうなるのか気になった……お前の考えはそんなところだろう。そんなに名前が愛おしかったか?」

 アレックスの本心を見透かすかのように言うと、記憶のアレックスはニヤリと笑った。

「私はお前の記憶……いわば分身のようなものだ。お前と同様、私も名前を愛しく思っているよ。記憶だけでなく情まで移されるとは……愛は科学を超えるのか……それとも、お前自身の人生への未練が強かったのか?」
「そんなことは、どうでもいい……!」

 アレックスの言葉を嫉妬と判断したのか、記憶のアレックスは侮蔑の眼差しでアレックスを見下ろした。
 そして記憶のアレックスは、アレックスの首に手を掛けるとそのまま絞めるように力を込めた。

「名前と一体になり生きる私が羨ましいか? 自分は醜い姿で生き延び、もう一人の自分は愛しい女と生きるなんて……何という悲劇だろうね」

 アレックスはその言葉もほとんど耳に入っていなかった。
 名前が死んだのではと、アレックスはそのことを恐れていた。

「名前の意識はどうした!?」
「……名前は生きている。私が名前の体を乗っ取り支配することも、やろうと思えばできるがね……だが、愛する女を簡単に殺したりはしないさ」

 アレックスは、自分の首を掴む名前の手を取る。女のものとは思えない強い力だったが、アレックスはその手を引き剝がそうとした。

「それなら、名前の意識はどこに行った!?」
「静かに眠っているよ。この体に一緒に生きているんだ……名前のことは、お前よりよく知っているよ」

 名前の顔で、記憶のアレックスは意地の悪い笑みを浮かべている。
 その軽蔑を含んだ眼差し。名前が生きていると分かった途端、名前の目を通して注がれるそれが、アレックスには耐えられなかった。

「名前を出せ!! 名前を通して、お前の表情かおは見たくない」
「これはこれは……私はお前なのに、自分に嫌われてしまうとはね」

 怒りに満ちたアレックスを眇めるように見た後、記憶のアレックスは再びニヤリと笑う。
 アレックスは渾身の力を込めると、自分の首を絞める名前の手を振り払った。

「お前は今……名前を愛する気持ちがあると言ったな……お前は……名前のその手で、私を殺させるつもりか。もし私を殺したとして……名前がどういう気持ちになるか、考えが及ばないのか?」

 アレックスにそう言われると、記憶のアレックスは名前の手をじっと見詰める。

「……そうか。やっとお前を殺せると、余りに興奮していたものだから……この体は名前のものでもある、という感覚をすっかり忘れていたよ」

 まるで記憶のアレックスが名前の体を乗っ取りつつあるようなその言葉に、アレックスは恐れと怒りが混ざったような感情を覚えた。

「黙ってその口を閉じろ。名前を呼び戻せ!!」
「……はいはい。全く、どこまでも自分勝手な男だ」

 今はアレックスを殺す時機ではないと判断したのか、記憶のアレックスは吐き捨てるようにそう言った。
 すると名前の表情が見る見る無表情になり、そのまま目を閉じてアレックスの胸元に倒れ込む。

「名前!」

 アレックスは名前を抱えて起き上がると、意識を呼び戻すよう名前の体を揺らした。

「しっかりしろ、名前!!」
「……」

 そのままアレックスが名前を呼び続けていると、名前の目が薄らと開く。

「……アレックス」
「名前……!」

 アレックスを見上げる名前の目には穏やかな光が宿っていた。それを見てアレックスは安堵する。
 記憶のアレックスが見せた、氷のように残忍な眼差しはもうなかった。

「アレックス、私は……?」

 名前は自分に何が起きたのか分からない様子だった。
 だがそれに構うことなく、アレックスは名前を強く抱き締める。

「アレックス?」
「すまない。少しだけ、このままでいさせてくれ……」

 名前を抱き締めるアレックスの腕は震えていた。
 それに気づいた名前は躊躇いながらも、アレックスを慰めるように抱き締めることしかできなかった。




 名前の中でもう一人のアレックスが目覚めてから数か月後、アレックスが危惧していたことが起こった。島に侵入者が現れたのだ。

 監視室にいたアレックスは、侵入者が島に入ってくる様子を監視カメラの映像で確認していた。
 侵入者は二人で、どちらもテラセイブの隊員だった。なぜそれが分かったかといえば、隊員の一人の顔をアレックスは知っていたからだった。

「クレア・レッドフィールドか」

 アレックスはクレアに直接会ったことはないが、彼女のことはよく知っている。

 我が兄、アルバートを死に追いやったクリス・レッドフィールドの妹。

 以前転生の儀に適合する人間を探すためテラセイブを調査した際、アレックスはクレアがテラセイブに所属していることは知っていたが、あえて素体候補から外していた。
 超人的な能力とウロボロスを手にしていたアルバートの計画を潰し、命を奪ったクリスの妹であれば、転生の儀に適合する可能性はある。

 だが、もしクレアが恐怖耐性を測る試験を全て通過して、その正義感の強さから研究所まで攻め込んできた場合、まだ転生の儀を成功させておらず、病に侵されたアレックスが全力でクレアに挑むことは難しい。
 クレアに敗北すれば自分の命さえ失い、この島でアレックスが築いてきた全てを失うリスクも考慮に入れての判断だった。

 しかしこうしてクレアがザイン島を訪ねてきたということは、この島の情報がどこからか漏洩したことを示している。
 以前島に連れ込んだテラセイブの隊員は全員死亡したことを、アレックスは監視カメラの映像で確認している。アレックスと手を組んだニールはそれを上手く隠蔽したと言っていたが、クレアのように納得せず不審に思う人間がいたのだろう。

 アレックスが考えを巡らせている間にも、クレアが研究所の方へ向かう様子が監視映像に映っていた。

 わざわざ研究所まで来るとは、やはりクリスに負けず劣らず正義感の強い人物なのだろう。
 それならば、クレアの相手にはあの男が相応しい。

 アレックスは小型の通信機を懐から取り出す。

「緊急の用件がある。今から私のところに来てくれないか」

 伝言を終えたアレックスは通信機をしまうと、監視室を後にした。



top