ウェスカーは爆撃機の手前でジルに呼び止められたとき、密かにセトを呼び出す通信機のボタンを押していた。元々セトは飛行場に待機させておいたため、ウェスカーがジルと話して時間稼ぎをしている数分間に、セトが援護に駆けつけた。
ウェスカーは爆撃機に乗り込み、離陸の自動操縦を済ませる。そして名前を機内の一室に運んで寝かせた。
そのとき、背後から機内の床をバタバタと踏み鳴らす音がして、ウェスカーは背後を振り返る。
「ウェスカー!!」
「観念しなさい!」
そこにはウェスカーに銃を向けて、クリスとシェバが立っていた。
「クリス……やはりお前は、何処までもしぶとい奴だ」
ウェスカーはクリス達に銃を向けられたままゆっくりと立ち上がる。突然の闖入者に対し、ウェスカーは驚く様子を見せなかったものの、内心は危機感を覚えていた。
ジルはセトが阻止したが、クリスとシェバが爆撃機まで追跡してくるであろうことは、諦めの悪いクリスのことだからと、ウェスカーも予想に入れていた。しかし、名前のいるこのタイミングで銃を突きつけられるとは、何とも間が悪いとウェスカーは思った。
「その女性は誰なの?」
ふと部屋の奥でベッドに横たわる名前を見て、シェバが声を上げた。
「貴様らには関係のない女だ」
「答えろ。一体誰だ?」
クリスもウェスカーに尋ねる。
「ウロボロスに適用できる素体として、この女から興味深いデータが取れた。ウロボロスを世界に拡散させるまで、この女は手元に置いておくつもりだ」
「何?」
クリスはアンブレラの人間なら、例え意識のない人間でも容赦しないだろう。名前をアンブレラ時代の同僚と言ってしまえば、真っ先に殺害される可能性がある。そのためウェスカーは咄嗟に言葉を繕った。
「お前がここまで連れてくるということは、ただの女ではない筈だ」
クリスはウェスカーに向けていた銃口を、名前に向かって構えた。
「その女は実験体とはいえただの人間だ。お前は一般人を殺す気か?」
「……くっ」
ウェスカーはあくまで平静な様子でクリスの動揺を誘った。名前の正体が分かっていない以上、クリスも無闇に名前に手出しはできない。
銃を構えるクリスの手が一瞬ブレたのを見逃さず、ウェスカーは不意にクリスの腕を蹴り上げた。凄まじい衝撃にクリスは銃を取り落としたが、シェバがウェスカーに向かって発砲しようとする。
「止めろ!シェバ。ここで争うと民間人に危険が及ぶ」
「でも……」
「賢明な判断だな、クリス。流石は元警察官だ」
「……っ、黙れウェスカー!」
ウェスカーは名前を民間人と称して、クリスの正義感を逆手に取る状況に追い込んだ。しかし爆撃機まで乗り込んできた以上、クリス達との戦いは避けられない。
「……お前達は何のためにここまで俺を追ってきた?」
「この機体を停めるためよ!」
シェバの言葉をウェスカは嘲笑してあしらう。
「俺が死んだとしても、機体は自動操縦で停まることはない。あと5分でウロボロスを積んだミサイルは飛び、ウィルスは世界中に拡散される」
「停める方法はある筈だ!」
クリスは爆撃機の自動操縦を止めさせるため、シェバにコックピットへ向かうよう指示した。クリスはウェスカーの前に立ちはだかり、シェバの追跡を阻む。
「無駄な悪足搔きは止めろ。お前達は気付くのが遅かった……今更何も変えられはしない」
「そうだとしても、せめてお前だけは倒す!」
そう言ってクリスは銃をホルスターに仕舞い、体術の構えを取った。
「銃なしで俺に勝てると思っているのか?」
「ここでお前に殺されたとしても、誤って民間人を殺すことはできない」
「フン……どこまでも正義感の強い奴だ。即死しても知らんぞ」
ウェスカーが先手を取って、クリスに豪速の蹴りを入れようとする。クリスはそれを避けて、ウェスカーの顔に向かって拳を振るう。ウェスカーはその拳を腕で受け止めた。
「お前とこうして戦うのは、ロックフォート島以来か?あの頃より逞しくなったようだが、それでもまだまだだな」
クリスはウェスカーに何度も拳を撃ち込むが、ウェスカーの目にはその拳が全てスローモーションに見えており、いとも容易くクリスの連撃をかわしていった。攻撃をかわしていく中で、ウェスカーはクリスの攻撃の勢いを捌き、クリスを壁に叩きつける。そして、すかさずクリスの首を掴んで締め上げた。
「こんなものか……やはり、人間の力など多寡が知れている」
「ぐっ……」
「……やはり人間はそのままでは呆気ないほど、弱い……お前でもな、クリス」
「……違う、弱いのはっ、お前だ……!」
「何?」
「お前はウィルスという、悪魔に魂を捧げたんだ……人間のまま強くあろうとしなかった……その代償は、いつか自分に返ってくる……!」
「お前にしては面白いことを言う。だが、何かを得るため何かを犠牲にすることは、人間には避けられないことだ。……俺はどんな手段を使っても絶対的な存在となる。例えそれが、悪魔との契約でもな」
ウェスカーの手刀がクリスの喉元を狙う。スペンサーの館で同じようにクリスに止めを刺そうとしたことを、ウェスカーはフラッシュバックのように思い返した。
これで、お前ともお別れだ。
ウェスカーが腕を引いて、クリスの喉元を突き刺そうとしたその時。
「ウェ、スカー……」
背後から聞こえた声に、ウェスカーの動きが止まる。ウェスカーが背後を振り返ると、そこにはベッドの上で起き上がる名前の姿があった。
一瞬の隙を見逃さず、クリスはウェスカーの腹を膝で蹴り飛ばし、拘束から逃れた。喉元を絞められたクリスは咳き込み、その場に膝をつく。その間にウェスカーは名前の元へ向かっていた。
「何故、俺の名を……記憶が戻ったのか?」
初めて研究所で名前が目覚めたとき、名前は過去の記憶を失っているようだった。
「いいえ。最初にあなたが自己紹介してくれたでしょう。だから、あなたの名前を憶えていたの」
それはウェスカーにとって、今は好都合なことだった。
「俺の後ろにいる男に何か尋ねられたら、自分は民間人だと言え。そうすれば危険に晒されずに済む……良いな?」
ウェスカーにそう促されて、状況がよく分かっていない名前は、とりあえずウェスカーの言うことに頷くしかなかった。
ウェスカーがクリスを振り返ると、背後では体勢を立て直したクリスが銃を構えていた。しかしその銃口はウェスカーでなく、名前に向かっている。
「……やはり、その女はお前に関わる人間か」
「何故そう思う」
「お前のような男が、実験に利用する人間に名前を教える筈がない!」
ウェスカーとクリスは睨み合ったまま対峙する。
名前は状況が飲み込めずに、クリスに銃を向けられてもどうしていいか分からず、呆然としていた。
何故自分に銃が向けられているのか分からない。そして、自分を庇おうとするウェスカーは一体誰なのか。
名前にはまだ、ウェスカーが自分とどういう関係のある存在だったのか、思い出せなかった。
「……殺すなら、俺を殺すが良い。お前にこの女は渡さん!」
「…………」
ウェスカーはコートを脱ぎ捨てると、それをクリスに向かって投げつける。闇色のそれがクリスの視界を遮った刹那、ウェスカーはクリスから銃を取り上げようとした。その衝撃で、銃身から弾が発砲される。
ダァン!という音の後に聞こえた小さな呻き声を、ウェスカーは聞き逃さなかった。
ウェスカーが背後を振り返ると、そこには、ベッドの上で蹲る名前の姿があった。
「名前!」
ウェスカーは名前の元へ走り寄る。放たれた弾丸は、名前の腹部に当たっていた。白いワンピースはそこから徐々に赤く染まっていく。
「名前……名前!!」
名前の視界には、自分の体から流れ出る血と、自分を覗き込むウェスカーの顔が見える。
ウェスカーのサングラス越しに、強く光る眼差し。その目の光が、霞む視界の中でも、やけに印象に残る。
私は、この目を知っている……?
自分へ訴えかけるようなその眼差しは、どこか懐かしいものを感じさせた。
私は、この人を知っている気がする。
目を閉じると、残像のように彼の目の赤が、赫々と瞼の裏に映る。その、血の色のように赤い光の先に、名前は幻覚のようなものを見た。
ブロンド髪の青年二人と、自分が白衣を着て研究に没頭する姿が見える。一人は、今自分の側にいるウェスカーだ。
もう一人の青年が実験中に面白おかしなことを言って、自分とウェスカーが呆れるように笑っている。
奇人変人と言われていたその青年は、途轍もない生物研究の才能を持っていた……ウィリアムだ。
何故、あんなに一緒に過ごした二人のことを、忘れていたのだろう。
そしていつも、何かと自分を心配してくれたウェスカー……あなたは……
「名前!!」
ウェスカーが気を失っている名前に向かって強く呼びかけたとき、突如ガタンと機内が大きく傾いた。それは、シェバが爆撃機を緊急停止させるため、強制的にハッチを開いた衝撃だった。
機内にある何もかもが、クリスやウェスカー達の体が、機体ごと下へ、下へと落ちていく。咄嗟にウェスカーは名前をベッドから抱き上げて、離れないように抱き締めた。
「お前を二度も死なせはしない。死なせるものか。死ぬなら、今度は俺が死のう……」
夢現の境で、名前はそう囁くウェスカーの声を聞いた気がした。