アルバートが研究所を去ってから数か月後。
密かに実験体としていた島民もいよいよ減り始めていたが、アレックスの理想とする転生の儀に相応しい素体は見つからなかった。
そこでアレックスは、バイオテロ事件の関係者を次の素体候補とすることに決めた。常人では生き延びることが難しい状況を切り抜けた人間であれば、転生の儀に適合する可能性が高いのではないかとアレックスは考えたのだった。
そしてアレックスは協力者として、対バイオテロ組織・テラセイブの職員であるニール・フィッシャーと結託し、特に優秀な人員をザイン島に連れてくるよう指示した。
計画通りニールがテラセイブの隊員を島に呼び込むと、アレックスは彼らの恐怖耐性を測る試験として、t-phobosの実験でゾンビ化した人間や動物を隊員の元に送り込む。
島中がt-phobosに感染したゾンビで溢れる中、最初こそ隊員達は冷静に対処しようとしていた。しかし次々と襲い来るゾンビを前に、彼らは一人、また一人と恐怖に追い詰められていく。そしてある者はゾンビに襲われ、ある者はt-phobosを発症して仲間の隊員に襲い掛かった。
やがて最後の一人がt-phobosを発症しゾンビ化するのを、監視カメラの映像から観察していたアレックスは溜息を吐く。
アレックスの目論見は失敗に終わった。しかしそのことに関して、アレックスは余り危機を感じていなかった。スペンサーから奪った残りの資金を投じれば、まだ島に人を呼び込むのは難しくないと思っていたからだ。
しかし自分の命の長さだけは、どれほどの権力や財力があろうと延ばすことはできない。その焦燥だけがアレックスを追い詰めていた。
研究所の役員室にいたアレックスは、先日アルバートから受け取ったウロボロスウィルスの入ったサンプルをケースから取り出す。
もし転生の儀に相応しい器が見つからず、いよいよ自分が死の淵まで追い詰められたとき。このウィルスをどう使うべきかを最近のアレックスは考えていた。
「ぐっ……!」
突然の発作にアレックスは胸を抑える。心臓を押さえ付けられるような苦しみと、耳元で鳴り響く鼓動に目眩がする。
アレックスはウロボロスの入ったサンプルを机の上に置くと、自分を落ち着かせるように深呼吸した。
転生の儀を成功させるまで……私はまだ倒れる訳にはいかない。
何とか発作に耐えてそれが収まってきた頃、アレックスの元に研究員が訪ねてきた。
「失礼いたします。アレックス様」
「……何だ」
「例の女を連れて参りました」
「そうか……通してくれ」
アレックスは椅子に座ったまま、研究員の案内で部屋に入ってきた男女を見る。男の方は女の片腕を押さえており、女は手枷を繋がれて項垂れている。
案内役を終えた研究員は、アレックスに向かって一礼すると部屋を後にした。
男はアレックスを見ると、怯えるような様子で頭を下げる。男は女の監視役で、女の方はアレックスの意向で研究所に連れられてきた人物だった。
数日前、アレックスは研究員から妙な噂を耳にしていた。それは島の森林地帯に、一人の女が幽閉されているという話だった。なぜかは知らないが、女はアレックスが島にやってくる以前から幽閉されていたらしい。
その女が、今アレックスの目の前にいる女だった。女の存在自体が島の一部にしか知られていないようで、アレックスが女について知ったのもつい最近のことだった。
ザイン島は孤島という土地柄、外界に対し排他的な考えを持つ人間が多い。アレックスが島に来る以前から、興味本位で島に来た旅行者などを、殺しはしないが一時的に隔離するなどしていたらしい。
アレックスが島に来てからは、不審な人間はまずアレックスの元に連れてくるよう島民に通達していたので、やがて幽閉されていた女の存在もアレックスの知るところとなった。
「君に色々と訊きたいことがある」
「は、はい。何でしょうか?」
アレックスが男に向かって話し掛けると、男は畏縮した様子でアレックスを見る。
「君はこちらの女性の監視役だと聞いている」
「はい……そうですが」
「ならば、彼女の素性や幽閉されていた事情についても知っているのだろう?」
「監視は交代制ですので、私も全てを知っている訳ではありませんが……」
「彼女について、君が知っていることを教えてほしい」
アレックスがそう尋ねると、男は隣にいる女を横目で見た後、徐に話し始めた。
「この女は赤子の頃、島の海辺で泣いていたところを発見されたそうです。海から流されてきたのか、渡航者が捨てて行ったのかは知りませんが、当時腹に子がいる女は島にいなかったそうで、元は島の人間ではありません」
「だが、こうして生きているからには誰かが育てたのだろう?」
少しの粗相もあってはならないと思っているのか、アレックスの問いに男は恐る恐るといったように頷く。
「は、はい。今はもう死にましたが、女を拾った島民が育てました。ですが、昔からこの島には海から流れてきた余所者は災いを齎すという言い伝えがあります。それで、一部の島民はこの女を忌み者として恐れていました」
「それで森に幽閉していたのか?」
まさか言い伝えだけが理由で幽閉されることにはならないだろうとアレックスは思った。アレックスの表情からそれを察したのか、男は女が幽閉されることになった理由を話し始める。
「それが……言い伝え通り、この女が成長するにつれて、次第に島は廃れ始めたのです。炭鉱が枯渇し、魚や獣も捕れなくなっていきました。アレックス様がいらっしゃるまで、私達は日々の生活を送るのがやっとの状態でした」
アレックスは最初にザイン島に来たときのことを覚えている。寒々しい雰囲気の貧相な村。壊れかけた家に住む、襤褸を纏った暗い顔の人々。
貧しさを絵に描いたような有様は、心ある者が見れば痛ましい風景だっただろう。しかしこのときアレックスは、自分が島の経済を立て直すことができれば、人々の信頼を得る足掛かりになるだろうと考えていた。
「やがて島民の間では、やはりこの女は忌み者、災いの元だと考える者が増えたのです。しかし、それでも殺すことはできませんでした。殺せば更に災いを呼び、島が呪われるのではと恐れたからです。そこで我々は彼女を〈恐神〉として祀るようになりました」
「恐神?」
「はい。災いを齎す者を退けるのでなく、神として崇めることで、その力を島の加護とするためです」
その話を聞いて、アレックスは内心呆れていた。神だの呪いだのと、閉鎖的な島とは、かくも迷信的なことを未だに信じているのかと。
神話のような話に耳を傾けつつ、アレックスは俯く女を見ていた。
彼女はアレックスから見ると、貧しさに追い詰められた人々の、負の念を背負わされた女に過ぎなかった。
「事情は分かった。では、今日からこの方は私が預かろう」
「えっ? ……ア、アレックス様?」
狼狽えてアレックスと女を交互に見る男に、アレックスは安心させるような微笑みを向ける。
「心配しなくてもいい。彼女は私が丁重にもてなそう。〈恐神様〉としてね」
今や島の独裁者に等しいアレックスにそう言われてしまうと、男は何も言えずにいた。
またこの男は仕事として女の監視役をしていただけで恐神に対する信仰心はなく、女をアレックスに引き渡すことに反対する理由もなかった。
「それを外してもらえるかな?」
アレックスが女の手首に掛けられた手枷を指して言うと、男は口籠る。
「私は構わないのですが、その……」
どうやら女の解放は、この男の一存でできることではないようだった。アレックスにとってはただの女に過ぎないが、神と畏れられる人間をそう簡単に自由にはできないのだろう。
「もしこの方の居場所を尋ねる者がいれば、私の元にいると説明すればいい。それで納得しないのならば、私が直接話をするとしよう。それで問題はないだろう?」
アレックスに身の安全を保証されたと思ったのか、男はアレックスに促されるまま鍵を取り出すと、女の手枷を解いた。
「では……私はこれで失礼いたします」
「ああ、ご苦労」
まるでこれ以上女と関わり合いになりたくないというように、男はアレックスに一礼すると、そそくさと部屋を立ち去った。
男が部屋を出るのを見届けると、アレックスは椅子から立ち上がり、俯いている女の方へ向かう。
「はじめまして。本日はこの施設までようこそお越しくださいました」
アレックスは落ち着いた声で挨拶すると、女にニコリと笑い掛ける。男さえ見惚れてしまうような華やかな笑顔を向けられても、女は何も言わずに黙っていた。
「私はこの研究施設の理事長、アレックス・ウェスカーと申します」
アレックスがそう言うと、女は少しだけ顔を上げる。
「アレックスさん……」
「ええ。あなたのお名前は?」
「……名前です」
アレックスは社交辞令として尋ねてみたのだが、内心は神などと人外のように扱われてきた以上、この女に名前などない、もしくは忘れているのではと思っていた。
しかし、女ははっきりと自分の名前を言った。監視役の男が言っていた、彼女の育ての親に名付けられたのだろうとアレックスは思った。
「名前さんですか。素敵な響きですね」
「……お世辞ならいりません」
無愛想な女の答えにアレックスは苦笑する。
「世辞のつもりはありませんよ? ですが、お気に障ったなら失礼いたしました」
本心では、アレックスは名前を神と思う気などない。だが今は初対面ということもあり、わざとらしく恭しい態度を取っていた。
また名前の態度は長らく幽閉されていたことで人間不信になり、警戒心が強くなっている表れだろうとアレックスは考えていた。
「私はこの島の外から来た者です。そして島の人達のように、あなたを閉じ込めたりしません。ですから、そんなに怖がらないでください」
アレックスが穏やかな声でそう言うと、名前は顔を上げてアレックスを見る。
名前の真っ直ぐな目が、アレックスの視線と重なった。
「あなたは優しそうに見えます……ですが、素直に信じられません」
「どうしてですか?」
「……その優しさ、私には本心とは思えないからです」
名前の言葉に虚を突かれたように、アレックスは一瞬黙った。
「フフ、あなたと私はまだお会いしたばかりです。それなのに、私の何が分かるのでしょうか?」
「……」
アレックスが話す間、名前は黙ってアレックスを見詰めていた。
「あなたは神なのでお分かりになると?」
「あなたの目を見れば分かります。その、冷たい碧色……」
アレックスの問いに、今まで黙っていた名前は静かにそう言った。
自分の目を冷たいと言われるのは、アレックスにとって初めてのことだった。
名前の真っ直ぐな視線に射抜かれて、アレックスは胸底がざわつくのを感じた。
「……あなたとは色々話したいことがありますが、細かいことは後にしましょう。研究所は寒いでしょう。ここにいると体が冷えます」
アレックスは自分の気持ちを払い除けるようにそう言うと、研究所を出て別邸に名前を連れていった。
別邸に移動したアレックスは、客間に入ると名前をソファに座らせた。部屋は薄暗く、蠟燭や暖炉の火だけが室内を照らしていた。
「申し訳ありませんが、ここは蝋燭でしか明かりを採れないのです。暗いですがご勘弁を」
元々島は未電化の状態だったが、アレックスが資金を注ぎ込んで電力を整備した。電力は島民の生活圏まで普及しているが、殆どは研究所で消費しているため、それ以外の場所で使える電力には限界があった。
「大丈夫です。暗い場所には慣れていますから」
名前がどこに幽閉されていたのかは定かでないが、彼女の発言から、恐らく碌な環境ではなかったことがアレックスにも察せられた。
アレックスは客間の入り口に置いてあった燭台に火を灯し、名前の前にあるテーブルに置く。そしてテーブルを隔てた名前の対面にあるソファに座った。
「私のことはアレックスと呼んでください。あなたのことは何とお呼びすれば?」
「名前と、名前で呼んでください」
「神の名を気安く呼ぶのは気が引けるのですが……」
「私は神ではありません。周りがそう言っているだけで、ただの人間です」
「そうですか……では、これからは神ではなく、一人の人間として接しますがよろしいですか?」
名前がそれで構わないと言うと、アレックスはにこやかに笑う。
「……では名前。どうぞよろしく」
アレックスがそう言って名前に手を差し伸べると、名前も躊躇いがちに手を伸ばして握手を交わす。
「早速だが、食事は?飲み物はいるかな?」
アレックスの言葉に名前は首を横に振る。
まだ警戒心が解けていない様子の名前を気にしないかのように、アレックスは普通に話し掛ける。
「そうか。それなら浴室に行くといい」
唐突なアレックスの発言に、名前は訝しげに彼を見る。
「今まで閉じ込められていたのだから、疲れているだろう? 遠慮する必要はない」
着替えも用意させると言うと、アレックスはソファから立ち上がる。色々質問されると思っていた名前は、あっさり終わった会話に内心拍子抜けしていた。
「浴室はこの部屋を出て、廊下の突き当たりを右に曲がったところにある。案内しようか?」
「いいえ。自分で行きます」
「それなら私はこの部屋にいるから、終わったらここに戻ってきてくれ」
アレックスは名前にそう言うと、客間にある本棚の方へ歩いていく。
アレックスに話すこともなかった名前は、言われた通り浴室に向かうことにした。